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田中康夫と浅田 彰の憂国呆談2

川端龍子の会場芸術から、秋篠宮とローラの発言、1979年に始まったグローバル資本主義の行く末まで。 photographs by Hiroshi Takaoka text by Kentaro Matsui

東京・大田区の『大田区立龍子記念館』を訪れた田中・浅田両氏。川端龍子自身が設計した自邸や画室、庭を見て歩きながら、館内では「会場芸術」と呼ばれる龍子の巨大な日本画を鑑賞。近代日本画に革新を起こした画業を振り返った。一方で、いまだ「革新」がなされないまま、グローバル資本主義の荒波に呑み込まれている日本の現状を憂えた。

浅田

今日は大田区立龍子記念館に来てる。アーネスト・フェノロサや岡倉天心が日本美術を再発見し、その精華をボストン美術館に収めたわけだけど、洋画から出発しながらそのボストン美術館で日本画に目覚めた川端龍子(1885-1966年)は、天心の間接的な弟子と言ってもいい。だから、「床の間芸術」じゃなく、洋画に勝るとも劣らぬスケールをもつ「会場芸術」を目指し、いわば大東亜共栄圏の美術を目指した。そのあげく、敗戦間際の8月13日に自宅が爆撃を受ける。食糧難のなか庭で育ててた野菜が爆風で飛び散る様を描いた「爆弾散華」は戦争画の傑作だと思うね。記念館の向かいに、焼け残った画室や戦後に建て直された自宅があり、主任学芸員の木村拓也さんに案内してもらったけれど、すべて画家自身の設計らしく、細部にまでこだわったデザインが見事。画室も仕事場であると同時に劇場であり展覧会場でもあるって感じ。文化財として保存する価値がある。

田中

画室の隅に置かれた机の上にはソロバンも当時のまま置かれていて、金勘定も抜かりない現実主義だったみたい。アクリル板のような透明の板を窓際に取り付け、そこに描き終えた作品のタイトルを書いておけば、手土産持って様子を伺いに来た画商が「注文した絵が描けている」とか「まだか」と判断できるようにしていた辺りの“心配り”もユニークだ。

浅田

マーケットで売ることを意識した近代の芸術家だったんだと思うよ。そうやって大作をどんどん描くんだけど、けっして間延びした感じは与えない。中尊寺金色堂に眠る奥州藤原氏のミイラを描いた「夢」は、太平洋戦争の戦死者のイメージが重なって、印象的だった。

田中

富士山を描いた「伊豆の覇王樹」もいい。解説によれば、「覇王樹とはサボテンのことで、1959年に開園した伊豆シャボテン公園に着想を得」たもので、「戦後の箱根山近辺の開発ラッシュの中、取材した伊豆半島においても『こんな山奥まで来てもゴルフに興じる余裕があるかと驚かされる』と龍子は述べている。しかし、自然を『余り玩具にするとドカン』と富士山がくるぞという、龍子の苦言の込もった一作となっている」と。「箱根山戦争」「伊豆戦争」を繰り広げた西武鉄道の堤康次郎が率いる西武グループと、東京急行電鉄の五島慶太が率いる小田急・東急グループの開発事業に対する皮肉にもなっている。20代の頃は城南地区デートの定番スポットで、当時のガールフレンズと幾度か訪れたけど、こんなにすごい人だとは当時の僕は気付かなかったよ。「ボーッと生きてんじゃね~よ!」と龍子に言われそうだ(苦笑)。

浅田

戦後は、東山魁夷とか平山郁夫とか、決してうまいとは言えない画家が大家扱いされるようになっちゃったけど、前の世代にはこんなにうまい画家がいた。再評価されるべき存在だね。

田中 康夫

田中康夫 たなか・やすお
1956年東京都生まれ。一橋大学法学部卒業。大学在学中に『なんとなく、クリスタル』で文藝賞受賞。長野県知事、参議院議員、衆議院議員を歴任。最新刊は『33年後のなんとなく、クリスタル』。http://tanakayasuo.me

浅田 彰

浅田 彰 あさだ・あきら
1957年兵庫県生まれ。京都大学大学院経済学研究科博士課程中退。京都造形芸術大学教授。83年に出版されたデビュー作『構造と力─記号論を超えて』はベストセラーに。

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