ソトコト ソーシャル&エコ・マガジン

田中康夫と浅田 彰の憂国呆談2

岡本太郎の「太陽の塔」から、国立民族学博物館の原点、アラーキーのセクハラ告発まで。 photographs by Hiroshi Takaoka text by Kentaro Matsui

大阪・吹田の万博記念公園にそびえる「太陽の塔」。公開中の内部を見学しようと田中・浅田両氏が訪れた。さらに、それを機に収集された民族資料を展示する国立民族学博物館や、旧・鉄鋼館も見学。エネルギーにあふれた1970年万博を振り返りつつ、今の日本を憂えた。

浅田

1970年の大阪万博で岡本太郎がデザインした「太陽の塔」の内部が復元され、48年ぶりに公開されたんで見に来たけど、なかなかおもしろかったね。丹下健三(東京大学)と西山夘三うぞう(京都大学)で全体のプランを決め、丹下が「お祭り広場」を中心とするテーマ展示エリアを担当。丹下傘下の磯崎新なんかが、数年後にできるパリのポンピドー・センターを先取りするように、「顔のない建築」、つまり情報環境として機能するグリッドさえあればいいって主張し、その「大屋根」の設計もほぼ終わってた。そこへ後からテーマ・プロデューサーとして加わった太郎が、超近代的なグリッドを突き破って、前近代的な土偶を巨大化したような3つも顔のある塔をぶっ立てたわけだ。サブプロデューサーだった小松左京がそれを石原慎太郎の『太陽の季節』に出て来る勃起したペニスで障子を突き破るシーンに喩えたことから「太陽の塔」って名前になったとも言われてる。

僕はかつて丹下の右腕だった伯父の浅田孝からいろいろ聞いてたけど、中学1年にしてすでに「反博」に傾いてたし、一応見に行ったものの、あまりの混雑に辟易した記憶しかない。しかし、半世紀近く経って見直すと、今では考えられない破天荒なイヴェントだったことは認めざるを得ないな。

田中

反博って運動があったんだ?

浅田

今年は1968年の若者の反乱から50年目だけど、当時、一方では新左翼、他方では前衛芸術の運動が盛り上がり、そこでは国家と資本主義の祭典としての万博を批判する声が強かった。戦後日本の前衛をリードしてきた太郎がなかなか万博のプロデューサーにならなかったのも、反博を意識してたからじゃないか。しかし、プロデューサーになってからは、「人類の進歩と調和」って公式テーマと正反対の「太陽の塔」をぶっ立てた自分こそ「反博」なんだって大見得を切ったわけね。

田中

なるほど。東京オリンピックが前回開催の1964年に信州に移り住んだ僕にとっては当時、大阪万博は少し遠い存在だったかな。浅間温泉へと向かうバス道路の反対側の信州大学のキャンパスには学生運動の立て看が並んでいて、附属中学の僕たちは美術の画板を機動隊員の盾に見立てて、「ムダな抵抗は止めなさい」なあんて昼休みに“ごっこ遊び”をしていた。

大学卒業後には京阪神を訪れる機会が多くなり、尼崎にも3年半近く暮らして、中国自動車道を通る度に幾度となく眺めていたけど、間近で見るのは初めて。なかなかの迫力だね。

浅田

万博のパヴィリオンは基本的に仮設と決まってて、閉幕後に壊す。だから、大屋根も一ユニットしか残ってない。ところが「太陽の塔」は当時から人気が高く、「残すべきだ」って声が広がったんで、そのまま残ったし、関西ではずっと市民に親しまれてきた。ただ、内部は非公開で、「生命の樹」って展示物も朽ち果てつつあったのを、太郎のパートナー(公式には秘書にして養女)だった平野敏子の甥にあたる平野暁臣がプロデューサーとして復元し、公開に至った。晩年の「岡本太郎」は太郎と敏子のユニットだって見方もある、そこに暁臣が加わった形で「岡本太郎」が生き続けてるわけ。ちなみに、この機会に彼が出版した『太陽の塔』(小学館)その他の本も、当時の記録を踏まえた知見が盛り込まれてておもしろい。

戦後の太郎の本はたいてい敏子の口述筆記(ゴースト・ライティングではないにせよ)だし、絵を描いてても敏子が「太郎さん、そこは青がいいんじゃない?」とか言ってたって証言もある(極端に言えば逆ゴースト・ペインティング)。万博のときできて、大阪・中之島に移転するまでここにあった国立国際美術館の学芸員だった建畠晢たてはたあきらの話では、太郎の絵の黒い絵具が剥落したんで本人に相談したら、「マジック!」の一言、黒いマジックで塗りつぶして終わりだったらしい。つまり、自分の手でつくった絵や彫刻それ自体に意味があるんじゃない、そこに表れた精神の爆発こそすべてだってのが太郎の考えなんで、その意味では「太陽の塔」こそ彼の最高傑作って言っていいんじゃないかな。

田中

有明や幕張の会場で毎年開催する各種の展示会と違って、万国博覧会やオリンピックといったイヴェントは持続可能な社会に反する一過性の催しだからね。天変地異の際の仮設住宅よりもはるかに巨額で巨大な構造物を会期終了直後に解体しちゃう前者も、20年前の長野冬季五輪の際に100億円を投じて建設したボブスレー・リュージュ・スケルトン競技施設の維持管理費に四苦八苦だった所有者の長野市が今春、休止を発表したように、イヴェント後の経済的リバウンドが激しい。

その意味でも、岡本は縄文時代の土偶や「トルマ」と呼ばれる円錐形のチベットの御供え物にインスパイアされたのだと周囲が語る「太陽の塔」が半世紀近くも「生き残り」、そして今回「生き返った」のは、5年半近く続いた「ニッポン凄いゾ論」の宴の後に、政治も外交も経済も文化も置いてき堀状態に陥っている中で、勇気と希望を与えてくれる存在なのかも知れない。

浅田

当時は塔の内部は大屋根の展示を見に上がるため5分ほどで通過するエスカレーター・ホールだったから、僕は見たはずなのに「生命の樹」は覚えてない。人類にいたる進化の樹のみならず、地下に「地底の太陽」(今回、写真などをもとに復元された)と無数の土偶や仮面の類からなる民俗学的展示があったってのは知ってたけど、実際に見ると印象的だね。

準備段階で博覧会協会の事務総長だった新井真一は日本のデザイン行政の草分けって言われる元・通産官僚だけど、敏子の記述では、太郎にプロデューサー就任を頼みに来たとき、「10億円あるから好きにやってくれ、結果が1枚の絵でも構わない」って言ったらしい。

田中

それはいろいろと考えさせられる深い逸話だなぁ。連載時のタイトルは『通産官僚たちの夏』だった城山三郎の小説『官僚たちの夏』が単行本として上梓されたのは1975年だけど、現在の安倍政権で総理大臣秘書官を務める今井尚哉たかやの叔父にあたる今井善衛と、その好敵手だった佐橋滋の二人をモデルとして、極めて大雑把に色分けすると、通商産業政策に於ける省内の国際派と民族派の攻防を描いた作品だった。新自由主義という名の下に多国籍企業という「無国籍企業」が跳梁跋扈する中で、机上の空論な「倫理学」とは違う、日々の人間の営みに根差した「倫理」が大切な今こそ、計画経済と自由経済の不毛なイデオロギー対立を超えた発想と行動が求められているわけでね。

当時の通商産業省で新井がどちらの陣容にくみしていたか定かではないけど、パプアニューギニアの木彫りかアメリカ先住民のトーテムポールみたいな代物なんぞは、アポロ宇宙船で持ち帰った「月の石」が目玉商品の大阪万博に似つかわしくない、と当時の「意識高い系」に腐された「太陽の塔」が実は、「海図なき時代」に於ける「人類の進歩と調和」を一人ひとりに考えさせる存在になっているんだから、岡本に依頼した新井は慧眼の士だね。長いものに巻かれろとばかりに上のほうにだけヒラメのように目を向けて阿諛追従あゆついしょうしているチマチマした最近の官僚やクリエイター、更には我々や若者も爪の垢を煎じて飲まないと(苦笑)。

浅田

しかも、暁臣が改めて新井に聞いたところでは、そもそも岡本を入れろって言ったのは丹下だって言うんだね。まあ、スケールの大きいやつらだったってことだ。

「太陽の塔」の原型は太郎がつくったものの、実際の設計図は丹下系列の25~26歳の建築家らが引いたらしい。しかし、地上30メートルの大屋根を突き破る60メートルの塔となると、とてもテーマ展示予算には収まらない。で、東京五輪の代々木競技場を建てたときに丹下が田中角栄蔵相に直談判に行ったように、太郎が大蔵省主計局に直談判に行き、積算根拠もない20億円ほどの予算を認めさせた。あの主計官も大物だったな、と。

「太陽の塔」のてっぺんの金属の顔の目は、若狭湾の原発が最初に稼働した、その電気で光を放つってストーリーになってて、その下にメインの顔があるわけだけど、背中に信楽しがらきの陶板でできた「黒い太陽」、地下にはさっき言った「地底の太陽」がある。同時期、太郎はメキシコのホテルのために「明日の神話」って大壁画を作ってた(お蔵入りになってたのを敏子が発見して修復、渋谷駅に展示されている)。これは明らかに核の火で焼かれる人々を描いた陽気で残酷な「死の舞踏」の絵なんで、「黒い太陽」や「地底の太陽」にはそれに通ずるものがある。ちなみに磯崎の話では「黒い太陽」は塔の背面にロイヤル・ボックスをつくることになって急遽追加された、と(笑)。

太郎はそれだけじゃなく、塔の地下に仮面や神像を並べたいと言い出し、梅棹忠夫や泉靖一ら20人の研究者に6000万円ほど、今なら3億円もあろうかという予算を渡して、世界中に派遣した。塔には展示しきれなかったその「日本万博世界民族資料調査収集団」の成果をもとにして、1977年、万博跡地に民族学博物館がオープンする。博物館ではその原点を振り返る展覧会をやってて、これまたおもしろかったね。

田中

その一団のなかには大本教の藤本達生も入っていたので、館内を案内してくれた国立民族学博物館の野林厚志教授に尋ねたら、藤本はエスペラント語の達人だったと。当時のヨーロッパは英語も通じず、いろいろなところを回るにはエスペラント語がいちばん役立つ言語だったので抜擢されたと教えていただいたのも、今回の訪問の成果だね。

浅田

太郎は1930年に19歳でフランスに留学、40年の開戦までパリで過ごすんだけど、37年パリ万博のあと会場だったシャイヨー宮の一角にできた人類博物館で始まったマルセル・モースらの人類学講義に通ってる。万博から民族学博物館へってシナリオをそこから思いついたとしてもおかしくないね。ちなみに、37年万博の目玉のひとつはピカソが空襲の惨禍を描いた「ゲルニカ」。「太陽の塔」と「明日の神話」のワン・セットが太郎の「ゲルニカ」だったのかもしれない。

今回の特別展には、新左翼の若手研究者や学生からの抗議文なんかも含まれてる。あと、アメリカ先住民・ホピの神像はすごくおもしろいけど、カチーナ神像のひとつが空白の展示になってる。「半世紀後の『再会』」と称して、先住民に収蔵資料を見直してもらい、宗教にかかわるので展示してほしくないって言われたから外してるんだね。68年以後、先住民の権利回復運動もここまできたってことで、印象的だった。

田中

公園内にある旧・鉄鋼館を利用した「EXPO'70パビリオン」も見学したけど、案内してくれた髙満津子さんが、閉幕後はまるで廃墟のようになっていた「太陽の塔」の内部に残されていたエスカレーターの照明器具や展示模型の一部を拾い集めて展示していたのも興味深かった。今回、塔内部を復元する際に大林組の現場の人から「捨てようと思うけど、いる?」と言われて譲り受けたと。万博のときに企業館がつくった映像資料も協会本部に酸っぱい臭いがするまま放置され、映像が変色して消えそうだから、そういう資料の存在を知ってもらいたくて展示しているって。大切なアーカイヴだよ。少なくとも映像資料は京都の精華町にある国立国会図書館関西館で引き取るべきだよ。僕からも提案してみるけど、元・首相の福田康夫が制定に心血を注いだ公文書管理法の意義を理解していない政治家や官僚が多いから、果たしてどういう反応になることやら(涙)。

浅田

ああいう人の存在は貴重だね。万博記念公園も10月から吉本興業を中心とするグループが指定管理者になるんで、彼女の属する関西環境開発センターは管理業務から外れるようだけど、それで資料の調査や管理がおざなりになってしまうとしたら大問題だよ。

しかし、鉄鋼館は、前川國男設計の建物に1000個のスピーカーを吊るした円形ホールをつくり、プロデューサー武満徹のもとイヤニス・クセナキスや高橋悠治の電子音楽をやってたんだからね。いま鉄鋼館でそんな展示はありえない。当時は、科学技術の先端とアート&デザインの先端を示すんだ、大衆にわからなくてもいい、むしろわからないくらいがカッコいいっていう覇気があった。ゆるキャラに代表される商業主義・大衆迎合主義の現代からは想像もできないね。何かの間違いで2025年に大阪に万博が来ても、チームラボが演出し、NMB48とロボットが歌い踊るようなしろものしかできないでしょう(苦笑)。

田中 康夫

田中康夫 たなか・やすお
1956年東京都生まれ。一橋大学法学部卒業。大学在学中に『なんとなく、クリスタル』で文藝賞受賞。長野県知事、参議院議員、衆議院議員を歴任。最新刊は『33年後のなんとなく、クリスタル』。http://tanakayasuo.me

浅田 彰

浅田 彰 あさだ・あきら
1957年兵庫県生まれ。京都大学大学院経済学研究科博士課程中退。京都造形芸術大学教授。83年に出版されたデビュー作『構造と力─記号論を超えて』はベストセラーに。

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