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“金”持ちになるより、“心”持ちに。 医師、WHO南東アジア地域事務所医務官 Sumana Barua スマナ・バルア 私たちが健やかに、安心して暮らせる基盤となるべき“医療”が今、さまざまな問題に直面している。どんな医師を目指したらいいのか? ロールモデルが見つからず迷っている日本の若い医者の卵たちが、その話に熱心に耳を傾けるという、バングラデシュ出身の医師がいる。スマナ・バルアさん。多くの人は、親しみを込めて彼を「バブさん」と呼ぶ。「金持ちより心持ちになろう」と説くバブさんの話には、「人」が「人」に対して行う行為という、医療の原点があった。 photos : Masaya Tanaka text : Reiko Hisashima

大切なのは、自分が学ぶという姿勢。

産科医、小児科医、救命救急医……、今、医師が足りないことが大きな問題になり始めている。地域の基幹病院が次々と閉鎖されていく。夜間の救急診療が十分に対応できなくなっている……。医療を巡るさまざまな問題は、メディアを賑わせ、“医療崩壊”という言葉も生み出した。

私たちが必要としている“医療”とは、いったいどういうものなのだろうか。それは医師がギリギリまで身を削って行う奉仕でもなければ、医師が圧倒的優位に立って患者に接するものでもない。いわば医師と患者とその家族が、対等に“病”に向き合うことではないだろうか。さまざまな国で医療の現場を見てきたバブさんの話を聞いていると、医師としてだけでなく、人としてなにが大切なのかが見えてくる。
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来日初日、成田から有楽町に直行し、「いのちの対談」に出席。混合診療を巡る活発な議論が行われる中、特別ゲストとして自らの体験を語った。

今回の来日では、2週間ほどの滞在ですが、スケジュールを拝見しますと、びっしりと予定が詰まっていますね。成田に夕方着いて、その夜には、川田龍平さんが主宰する「いのちの対談」にゲストとして参加されました。会が終わってからも、バブさんのところに人の輪ができていて、あらためてバブさんが日本で培われてきた人脈、人とのつながりを実感できました。

人気者ですから(笑)。というのは冗談ですが、2002年に日本を離れてからも(初来日は1976年、その後93年~2002年日本在住)、毎年少なくとも1回は日本を訪れています。昔の友人に会ったり、現在、WHOで関わっているハンセン病について講演をしたり、若い医学生と語り合ったり……。一度日本に来ると、100人、200人という人たちと出会うことができます。

バブさんの話を聞きに集まってくる人はさまざまですが、やはり若い人たちが多いと思います。彼らは、なにを求めて来ているのでしょうか?

みなさん、学校の先輩や知人から私のことを聞いて、興味を持って来てくださっているようです。彼らからはいろいろなことを聞かれますが、「途上国で、自分たちにできることはなんなのか?」という質問が多いですね。それに対して私は「自分ができることをしに行く前に、自分が学ぶために行きましょう」と答えます。途上国、あるいは私が医師としての研修を積んだフィリピン・レイテ島の村には、医学部の教科書では学べないことがたくさんあり、私自身も村人や村の子どもたちからたくさんのことを学びました。

バブさんは今、多くの学生たちが海外での医療に携われるよう、尽力されていますね。

はい。学生たちの希望や考え方を聞いて、あなたならここの国がいいんじゃないか、君はこちらの国のほうが力を発揮できる、とアドバイスをし、実際に行きたいと希望する人には、相手の国で受け入れてくれる機関を紹介したりしました。また、フィリピンにいた頃は、日本人学生のために一部屋借りていましたし、スモーキーマウンテンで暮らす子どもたちの現状を知ってもらいたくて、毎年、学生たちを連れて行くことを15年間続けていました。

そういう体験を通して、日本の学生たちにどんな変化が起こるのでしょうか?

顔が変わってきます。出発前は険しい顔だったり、トロンと眠そうな顔だったりしたのが、戻ってくるときにはニコニコして、明るく、精気に満ちています。そして、「学ぶことで自分の人生の道を見つける、苦労して自分の道を見つけることに意味がある」と、僕がいつも言っていることが、実感としてよくわかった、と言ってくれます。それは、僕にとっても、とても嬉しいことです。

彼らにとってバブさんは、人生の師であり、父親みたいな存在なのですね。

ある学生の話ですが、恋人ができたとき、お母さんに電話で話したら「私に報告する前に、バブさんに紹介しなさい」と言われたと、その恋人を家に連れてきたことがありました。私も私の妻も「息子が恋人を連れてきたようだ」と感じましたよ。

地元の住民の推薦で入れる医学部。

そもそも、バブさんが医師を目指したのはなぜですか?

私が生まれ育ったのは、バングラデシュの小さな村で、当時は医師がいませんでした。12歳のとき、近所でとても親しくしていたおばさんが、出産の際に亡くなりました。そのとき、将来医者になり、村のお母さんたちを助けたいと思い、それが医師を志したきっかけです。当時のバングラデシュは、乳児の死亡率がとても高く、1000人のうち140人は生きていけない、そういう国でした。

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来日中は、精力的に全国各地で講演をこなす。若い学生との対話を大切にする。

その後、フィリピン国立大学医学部レイテ分校(SHS)で学ぶことになるのですね。

日本も含め、アジアのいろいろな大学の医学部を、時間をかけてじっくりと見ましたが、あまりにも細分化、専門化されすぎ、私が学びたい医療を教えてくれそうにありませんでした。そんなとき、SHSのことを知りました。

とてもユニークな教育システムだと聞きました。

まず、医師や看護師がいない地域から学生を募ります。学生は、地元の村人の75%以上の推薦がなければ、学校に入学することができません。村人の信頼を背負って、みな学びにきています。入学してまず学ぶのは「助産師」の仕事です。妊娠・出産だけでなく予防接種、結核への対応、コミュニティへの健康教育なども学びます。週の半分は学校で学び、残りは近在の村へ行き、実地の研修があります。助産師の資格を取ると一度出身の村へ戻り、さらに村の推薦を受ければ、看護師、医師へとステップアップすることができます。医師になるまでに、だいたい10年くらいかかりますね。

どうして、そのようなシステムの学校がフィリピンにつくられたのでしょう?

SHSが設立されたのは1976年。当時、フィリピンで医学を学んだ学生の大半がアメリカへ行ってしまった。仕事もあるし、収入もいい。その結果として、国内の医療が崩壊の危機に直面していました。そこで、村の人たちの推薦を受けた学生に、その地域に必要な医療を学んでもらい、地域に戻る教育システムを、フィリピン国立大学の13人の教授がつくりあげました。学生たちは、診療に訪れる村の人々と強い関係をもち、彼らと共に生きていくことを自然に選択していきます。卒業生の85%以上が自分の村に戻っているという数字が、SHSの成果を示していると思います。

でも、バブさんはバングラデシュ出身ですよね?

ええ、私はSHSの唯一の外国人学生です。最初は断られましたが、あきらめずに何度もお願いをし、自分の気持ちを伝えました。入学が許されるまでに2年半かかりました。もちろん、故郷の村の推薦をもらいましたよ。

人生を分かち合う。

10年通ったSHSですが、なにか印象に残っていることはありますか?

入学すると、まずひとり10本、樹を植えます。私たちは、村に入って生活するわけですから、村で使う薪の量は増えます。その分、樹を植えて補わなければならないのです。それは医療とは直接関係ないことですが、村の中で暮らしていくためには必要なこと。これは一例ですが、普通の医学部では学べないことを、たくさん教わりました。

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ハンセン病のベトナムの農家の男性。“Life means sharing”の大切さを知る。

病気だけを診るのではなく、人、それを取り巻く環境、暮らし、いろいろなことを知ることが、地域での医療では必要だということですね。

そうですね。私がレイテ分校で学んだことは「人間として、人間のお世話をする」ことです。医師だけが特別な存在ではありません。医師、患者、看護師、助産師……、その間には“壁”が存在することが多いですが、それではだめです。みんなひとりの人間であり、相手もまた人間である。そう考えることが、医療の原点だと学びました。

医師の数はいても、それが都市部に集中する現象は、どんな国にもあることですが、SHSのような取り組みは、日本でも必要ではないかと感じます。

農村医療を掲げた佐久総合病院の若月俊一先生、大阪大学名誉教授の中川米造先生など、何人かの先生が日本にもSHSのようなモデル校をつくろうとしたこともありましたが、実現しなかったようです。日本には、途上国で医療支援をしたいという若い人がたくさんいます。そういう若い人たちは、ぜひ日本の地域を歩いてみてほしい、そして保健師さんの鞄持ちになってほしいと思います。きっと、学校では学べないことを勉強できるはずです。それこそが、海外に行って役に立つ医療だと私は思います。私がそうアドバイスして、長野で医療の実践を積み、今は『国境なき医師団』で働いている日本人の女性がいますよ。

現在は、WHOに勤務し、とてもお忙しいと思いますが、それでもなお日本にも来て、学生たちを応援している。そのバイタリティはどこからくるのでしょうか?

私は、お金もない、家もない、車もない(笑)。でも、世界中に友達がいます。それは私のとても大切な財産。そう思うから、日本に来る旅費も“自腹”です。妻には怒られますが(笑)。

私が持っているものを、(自分のためだけに使うのではなく)若い学生たちに分け与えれば、人生はもっと楽しくなりますし、周りの人たちも人生の道を見つけていくことができます。Life means sharing ──どんな人でも分かち合えるものを持っています。ベトナムで出会ったおじいさんは、地雷で奥さんと息子さん、そして自分の脚をなくし、今またハンセン病を患っています。それでも「生きていることが嬉しい、それだけで幸せだ」と、とても明るい。しかも、つくったお米50キロのうち、20キロは村の中で分かち合っています。そんな人を見ると本当に嬉しくなります。人生を分かち合いましょう!

Sumana Barua スマナ・バルア

Sumana Barua スマナ・バルア
医師、医学博士。1955年バングラデシュ生まれ。76年来日。79年フィリピン国立大学医学部レイテ分校入学、助産師、看護師、医師の資格を取得。89年バングラデシュに戻り、地域医療に従事しつつ医科大学で教鞭をとる。地元NGOの保健医療コーディネーターとしても活動。93年から東京大学医学部大学院で国際保健計画学を学び、96年修士号、99年博士号を取得。WHO(世界保健機関)のコンサルタント、JICAのPHC研修コースアドバイザー、WHO西太平洋地域事務所(マニラ)医務官を経て、現在、WHO南東アジア地域事務所(ニューデリー)医務官。バルアさんの活動詳細は以下のサイトにも。
http://www.hinocatv.ne.jp/
~micc/Bab/01BabCover.htm

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