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福岡伸一の生命浮遊

細胞が単独で生活する単細胞生物から、複数の細胞が機能を分担して生活する多細胞生物へ。これが生命の進化における最大のジャンプだった。多細胞生物は受精卵から出発する。受精卵とは精子と卵子が合体してできたひとつぶの細胞である。その受精卵細胞が分裂を繰り返しながら増えていく過程で、細胞がそれぞれ個性を帯び、専門化を果たしていく。これが細胞分化である。その間、ゲノムDNAは細胞から細胞へとコピーされて受け渡されていく。コピー、つまり正確に複製されるということは、同じゲノムDNAが伝達されるということ。では、なぜ同じゲノムDNAを持ちつつ、細胞はそれぞれ違う働きを行いうるのか。それが多細胞化の最大の謎であった。

私たちヒトは、約60兆個もの細胞からできている多細胞生物。分化のプロセスは解析するにはあまりに複雑すぎる。しかも哺乳動物の場合、分化プロセスは母胎の内部で進行するため外部から観察することが難しい。そこで細胞分化の研究は、ウニやイモリの卵を使って調べられた。しかしそれでも多細胞化のプロセスは複雑で、解析は難航を極めた。

もっと細胞の数が少ない多細胞生物はいないものだろうか。1960年代の終わりごろ、早くも生物学の将来を見すえていた人物がいた。その名をシドニー・ブレナーという。

DNAの二重ラセン構造が発見されたのが1953年。その後、DNAの遺伝情報がRNAに転写され、ついでタンパク質に翻訳されるプロセスが急速に解明されていった。そんな頃、シドニー・ブレナーはすでに次のステップについて考えていたのだ。遺伝情報の基本的な流れは、たとえば大腸菌のような単細胞生物を用いれば解析できる。しかし多細胞化・分化のプロセスは多細胞生物を用いなければ解明できない。モデルとなる生物に何を選べばよいだろうか。

ブレナーの慧眼が見出したのは、Caenorhabditis elegans(カエノラブディティス・エレガンス)、略して、“シー・エレガンス”。それは土壌中に棲む小さな「線虫」と呼ばれる生命体だった。線虫は、寄生虫である蟯虫(ぎょうちゅう)に近い生物だが、シー・エレガンスは、寄生ではなく土の中で独立独歩、自活している。食物は土壌中の細菌。細い透明な身体をしており、体長は1ミリメートル程度。

もっともすぐれている点は多細胞生物でありながら、細胞の数が少ない、ということだった。細胞の数は全部で959個。1個の受精卵細胞がほんの10回ほど分裂すれば完成する(細胞の数が2の倍数でないことにはわけがある。後述)。

シー・エレガンスには、口も消化管も肛門もある。筋肉細胞も神経細胞も生殖細胞もある。それぞれ分化した細胞。匂いをたよりにエサを探せる。つまり嗅覚がある。棒でつつくと反対方向に逃げる。すなわち刺激に対する応答がある。シー・エレガンスは立派な多細胞生物なのである。

私も線虫を飼育したことがある。シャーレの中に薄く寒天を敷く。その上にまず大腸菌を培養する。これが線虫のエサ。そこへ線虫を放す。線虫は何とか肉眼で見える。小さな身体を波状にうねらせて進む。大腸菌を食べながら成長し、増殖する。

ブレナーとその仲間たちは、線虫を丹念に観察し、受精卵が分裂を繰り返しながら、それぞれの細胞が最終的に身体のどこの細胞に分化するか、その正確な系譜図を完成させた。不必要な細胞は途中で自殺プログラム(アポトーシス)が働き排除される。だから最終的な細胞数は2の倍数ではない。

これによってシー・エレガンスは、その名のとおり、エレガントなモデル生物となった。線虫を用いて分化の研究が推し進められることになったのである。

私は、アメリカに留学していた頃、シドニー・ブレナーのセミナーに出席し、本人と会って話したことがある。小柄で気さくなおじさんだった。私は線虫の本の扉に、彼のサインをもらった。それは今でも私の大切な宝物として本棚に並んでいる。

今日、彼の仕事は、生物学史上、最も重要な達成のひとつに数えられている。分化についてさらに考えてみたい。


福岡 伸一 ふくおか・しんいち
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。2013年4月よりロックフェラー大学客員教授としてNYに赴任。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)など。

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