ソトコト ソーシャル&エコ・マガジン

福岡伸一の生命浮遊

アメリカ・エモリー大学のブライアン・ディアスとケリー・レスラーの研究チームは次のような実験を行い、2013年12月1日に論文を発表した。

実験用のマウスに対して、まずアセトフェノンの匂いをかがせる。アセトフェノンはサクラの花びらの香り。マウスにとっては普通の飼育環境では体験することのない新しい匂いである。その直後(ちょっとかわいそうなのだが)、飼育箱の床に電流を流して、びりっと電気ショックがやってくるシカケになっている。これを何度か繰り返し行う。するとマウスは、アセトフェノンの匂いがすると痛い目に遭う、ということを憶えて、身をすくめるようになる。これを「条件づけ」と呼ぶ。あるいは「条件反射」という言葉のほうがより一般的かもしれない。

鈴の音がすると食事がもらえるように条件づけすると、鈴の音がするだけでよだれを垂らすようになる、という有名なパブロフの犬の実験の条件反射である。条件づけは私たち人間にだって起こる。梅干しを見ると、見ただけで唾がわいてくる。それは、梅干しはとても酸っぱいものだという条件づけによる。

さて、マウスの実験である。このときマウスの脳の中ではどのようなことが起きていると考えられるだろうか。本来、アセトフェノンのサクラを思わせるいい香りと、電気ショックとのあいだには何の関係もない。しかし、条件づけによって、この2つに関係があることをマウスは学習させられた。つまり、記憶がつくられたわけである。前回、このコラムでは記憶の正体が、脳内のニューロン(神経細胞)とシナプス(神経と神経をつなぐ情報連結装置)からなる回路である、と述べた。だから、マウスの脳内には新しい神経回路が形成されたと考えられる。すなわち、アセトフェノンの匂いを感知する匂いレセプターの信号を受け取る嗅覚の神経細胞と、それを感知するとまもなく電気ショックがやってくるという痛みや電流を検知する神経細胞、そのことに対して身構えるための運動神経、そのような一連の─刺激応答─の神経回路網が、条件づけされたマウスの脳内につくり出された、と考えられる。

ここまでは特に何の目新しさもない話である。これだけでは論文を発表できる新しさはどこにもない。ディアスとレスラーの実験が世界中の注目を集めた理由はここから先にある。彼らは、条件づけされたマウスの次の世代、その次の世代の行動を調べてみたのである。すると意外なことが判明した。

条件づけをしたマウスの子孫たちに対して、同じようにアセトフェノンをかがせたあと、電気ショックがくるという「学習」をさせてみると、より敏感に条件づけされるようになったのである。すなわち、ずっと低い濃度のアセトフェノンに対しても、これにおびえるようになった。

彼らは注意深く、いくつかの可能性を排除する確認を行っている。まず条件づけされた親は、条件づけを行った時点ではまだ妊娠をしていなかった。つまり母胎にいるときに経験したことではない。それから特別に鼻がよく利くようになったわけでもない。他の匂いを使った実験を行い、比べてみると、アセトフェノンに対してだけ鋭敏におびえることがわかった。さらに彼らは、条件づけした父親マウスの精子を採取し、その精子を使って人工授精を行い、人工授精によってできた次世代でも実験を繰り返した。するとやはり、アセトフェノンに対する恐怖は、より鋭敏になっていたのだ。つまり母体からの影響、あるいは母親の卵細胞由来の何かに要因があるわけではない。父親からは精子のDNAしか伝達されない。

これは一体、何を意味しているのだろうか。

極めて端的にいえば、記憶が遺伝している、という驚くべきことが示されたのである。

次回、このことをさらに詳しく論じてみたい。


福岡 伸一 ふくおか・しんいち
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。2013年4月よりロックフェラー大学客員教授としてNYに赴任。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)など。

オフィシャルブログ
http://fukuoka-hakase.cocolog-nifty.com/

ゴミ、捨てんなよ!

Copyright © KIRAKUSHA, Inc. ALL rights reserved.