ソトコト ソーシャル&エコ・マガジン

福岡伸一の生命浮遊

脳でスイッチがオンになる一群の遺伝子は、チンパンジーよりヒトで、作用のタイミングが遅れる傾向が強い。つまり脳のある部位に関していえば、ヒトはチンパンジーよりもゆっくり大人になる。ヒトはチンパンジーよりも長い期間、子どものままでいる。そういうことになる。

脳だけではない。外見的な特徴を見ると同じ傾向があることに気づかされる。

ヒトは、チンパンジーの幼いときに似ている。体毛が少なく、顔も扁平だ。生まれたばかりのときは無力で、そのあと長い育児期間が必要だ。数年で性成熟するチンパンジーにくらべて、ヒトは第二次性徴を経て、生殖可能年齢に達するまでどんなに早くとも十数年を要する。

つまり、チンパンジーが何らかの理由で、成熟のタイミングが遅れ、子ども時代が長く延長され、そして子どもの身体的な特徴を残したまま、性的にも成熟する。そのような変化があるとき生じた。そしてそれがヒトを作り出した。そのような仮説である。

子どもの期間が長く、子どもの特徴を残したままゆっくりと性成熟することを生物学用語で「ネオテニー」と呼ぶ。そして、ネオテニーには外見が子どもっぽいということ以上に、進化上、意外な有利さがあった。子どもの期間が延びるというのは、それだけ、恐れを知らず、警戒心を解き、柔軟性に富み、好奇心に満ち、探索行動が長続きするということである。また試行錯誤や手先の器用さ、運動や行動のスキルを向上させる期間が長くなるということでもある。つまり学びと習熟の時間がたっぷり得られることになる。一方で、性成熟が遅い、ということは縄張り争いや順位づけ、メスの取り合いやオス同士の闘争などが起こりにくい、つまり攻撃性が低いということでもある。このことこそが知性の発達に手を貸すことになった。つまりヒトはサルのネオテニーとして進化したというのだ。なかなか魅力的な仮説ではないだろうか。

ここで重要なのは、このような変化は、遺伝子自体に突然変異が起きて、遺伝子Cが、遺伝子Xに変わらなくても、ただ、遺伝子Cの活性化のタイミングが遅れさえすれば、実現できる変化だということである。そして遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みが、遺伝子A、B、C、Dとともに世代を超えて受け渡されれば、同じA、B、C、Dという遺伝子のセットを受け継いでも、それが作動する結果としての生物、つまり現象としての生命は、異なる特徴を発現できることになる。

このようなしくみ、つまり遺伝子そのものではなく、遺伝子活性化のタイミングを制御するしくみの受け渡し(世代を超えてその様式が伝わるのであれば、これも遺伝といってよい)が最近、とくに注目されてきている。それが、前々回のこのコラムでふれたエピジェネティクスである。エピとは、遺伝子「外」を意味する。遺伝子の外にあって、遺伝子を制御する遺伝的なしくみ。

それはいったいどのようなものだろう。ひとつには卵細胞由来の物質がある。受精の瞬間、DNAは精子由来のものと、卵子由来のものが合体してひとつの新しいゲノムを作る。しかし次世代に受け渡されるのはDNAだけではない。そのDNAを包み込む、卵細胞には様々な物質があらかじめ含まれていて、それは母から子へと遺伝する。この卵細胞の中には、マターナルRNAというものが準備されている。これは受精卵のゲノムからできたものではなく、あらかじめ卵細胞が形成されるときすでに準備されている、母由来の遺伝子である。マターナルとは文字どおり「母の」ということである。母が用意する環境である。マターナルRNAがまず最初のスイッチとなって、それが新しいゲノムの働き方を決める。

だからどのようなマターナルRNAがどれくらい卵細胞に用意されているかが、ゲノムDNA上の遺伝子のスイッチオンのタイミングを決めることになる。マターナルRNAにどのようなものがあり、どんな働きをしているのか、それはまだほとんど明らかになっていない。

ゲノムを取り囲む「エピ」は、卵細胞の環境だけではない。ゲノムDNAは、細胞内部の細胞核にきちんと折りたたまれて格納される。そのときDNAの糸を規則正しく巻きつける「糸巻」の役割をするタンパク質がある。これは卵子および精子から供給されるものだが、このとき、糸の巻き付け方にある種のパターンがあるのではないか、ということがわかってきた。DNAの糸がしっかりとかたく巻きつけられているところはスイッチがオフになっている。糸がどちらかといえばゆるく巻きつけられている部位は、スイッチがオンになりやすい。

あるいは糸自体にメチル化という小さな目印がつけられており、その目印のパターンによって、遺伝子スイッチのオン・オフが制御されている。

マターナルRNA、糸巻、メチル化、これらはすべて、エピジェネティクスを解くためのほんの入り口にすぎない。遺伝子の科学は新しい時代の扉を開きつつあるのだ。そしてこのことは、生命の多様性、柔軟性、可変性を説明する新しいキーワードになるだろう。


福岡 伸一 ふくおか・しんいち
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。2013年4月よりロックフェラー大学客員教授としてNYに赴任。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)など。

オフィシャルブログ
http://fukuoka-hakase.cocolog-nifty.com/

ゴミ、捨てんなよ!

Copyright © KIRAKUSHA, Inc. ALL rights reserved.