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福岡伸一の生命浮遊

ヒトとチンパンジーのゲノムを比較すると98%以上が相同で、ほとんど差がない。

では残りの2%足らずの情報の中に、ヒトを特徴づける特別な遺伝子があり、その有無がヒトをチンパンジーとは異なる独自の生物にしているのだろうか。

おそらくそうではない。DNA情報におけるこの2%足らずの差というのは、特別の遺伝子を持っているか、いないか、といった質的な差ではない。むしろ同じ筋肉タンパク質の遺伝子を比較してみると、そこに多少の「てにをは」レベルの差がある、という微細な量的な差なのだ。

遺伝子は、a、c、g、t 4種のヌクレオチドという単位で、情報が記述される。たとえば、gggならグリシンというアミノ酸を指定する。これがggc、あるいはggtに書き換わっても、同じグリシンを指定する。あるいはgcgに書き換わると、指定アミノ酸はグリシンからアラニンに変わる。しかしグリシンとアラニンはアミノ酸としての性質に大きな差はない。そしてひとつひとつのアミノ酸はタンパク質のほんの一部。そこに微小な差が生じても、ほとんどの場合、筋肉タンパク質全体にとっては機能的にも構造的にも差が表れない。

つまりチンパンジーとヒトは、進化の過程で共通の祖先を持っていた。そして同じゲノム(DNAの総体)を共有していた。それがヒトとチンパンジーに枝分かれしたあと、受け継いできたゲノムが、自らコピーを繰り返すうちに、わずかな写本上の文字の異同が起きた。その程度の差の集積がヒトとチンパンジーのDNAの差である。

ヒトにあるA、B、C、Dという遺伝子は、チンパンジーにも同じようにある(ここで使用するA、B、C、Dといった個別の遺伝子を指す記号は、先のヌクレオチドを示した小文字のa、c、g、tとは意味が異なる。小文字で記された、accgttaggacct……という連なり〈数百から数千文字にも及ぶ〉ひとつが、ひとつの遺伝子Aに対応する)。

ただAが、ほんのわずかだけ変化してA'となっていて、チンパンジーは、A'、B、C、Dという遺伝子をもつ。もちろんこれは例であって、遺伝子全体の数は二万数千種類にも及ぶ。しかしそれでも差は、文字列のわずかな異同であり、それ自体がヒトとチンパンジーの特徴の差を生み出しているのではない。

つまり私の言いたいことはこうである。仮に遺伝子操作によって、チンパンジーのA'遺伝子をヒトのA遺伝子にすげかえても、(そしてこの操作をくまなく繰り返して、DNA文字列上の2%の差をすべて書き換えたとしても)チンパンジーはヒトにはならない。

ではいったい何がヒトをヒトたらしめるのだろうか。それはおそらく遺伝子のスイッチがオン・オフされるタイミングの差ではないか。

同じA、B、C、Dという遺伝子を持っていても、遺伝子はあくまで情報であって、実際の作用をもたらすことはない。作用をもたらすのは遺伝子が作り出すタンパク質である。だからAという遺伝子のスイッチがオンになる、というのはA遺伝子からAタンパク質の製造が開始され、Aタンパク質が細胞の内外で作用を発揮するタイミング、ということになる。もし、C遺伝子が作り出すCタンパク質が、生物の第二次性徴を促す重要な性ホルモンだとすれば、いつC遺伝子のスイッチがオンになるかによって、その生物が生後、どれくらいで性的に成熟し、生殖行動を開始するかが左右される。

最近になってたくさんの遺伝子(たとえば数百とか数千)がどのようなタイミングで活性化されるか(スイッチがオンになるか)を同時に解析できるような実験装置が作られるようになった。ヒトの場合、ある年齢でどの遺伝子が活性化されているかを調べるのはなかなか難しい。特に身体の内部、脳の内部となると、非侵襲的にサンプルを採取することは不可能なので(ありていにいうと、身体や脳を傷つけずに実験することはできないので)、不幸にも偶然、事故死したようなケースについて、遺族にお願いしてサンプル採取を行って遺伝子活性化の程度を調べることになる。

そのようなデータがすこしずつ集積されてくると意外なことがわかってきたのである。


福岡 伸一 ふくおか・しんいち
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。2013年4月よりロックフェラー大学客員教授としてNYに赴任。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)など。

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