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福岡伸一の生命浮遊

私は、ニューヨークのフリック・コレクション美術館の大階段前のホールにたたずんでいた。ここは私が初めてホンモノのフェルメール作品に出合った場所だ。いまから30年も前のこと。当時、フェルメールの名前こそ知っていたものの(昆虫オタクだった私は顕微鏡の歴史をたどるうちにオランダのデルフトという小さな街で、顕微鏡の始祖アントニ・レーウェンフックとフェルメールが同時期、ごく近接して暮らしていたことを知った)、実際の絵を見たことはなかった。フリック・コレクション美術館には、『兵士と笑う女』、『手紙を書く女と召使い』、そして『稽古の中断』と、3点ものフェルメール作品がある。いずれも門外不出で、ここに来ないかぎり見ることができない。

最初にフェルメールを見たとき、不思議な感覚に胸を打たれた。正確な遠近法とやわらかな光のヴェール。それはどこまでも公平で、清明だった。まるで写真を見ているみたいだ、と思った。そしてフェルメールのことを画家というよりは、世界をありのままに写し取ろうとしている科学者的なマインドの持ち主だったのではないか、と感じた。実際、フェルメールは、カメラ・オブスクラ(レンズつきの針穴写真機のような装置。ただし、まだフィルムはない。磨りガラスの上に風景が映し出される)を使って、3次元空間を2次元のキャンバス上に正確に引き写そうとした。この光学機器は、レーウェンフックから教えてもらったものである可能性が高い。

当時、私もまた生物学者の卵として、科学の道を模索していた修業中の身だったから、おこがましいことながら、なんだかフェルメールの科学者マインドに好意を覚えた。以来、私は世界中に散らばっている37点のフェルメール鑑賞の巡回を始めることになったのだが、ニューヨークに来る時には必ず、ここフリック・コレクション美術館を再訪することにしている。マンハッタンの喧騒の中にあって、この館の内部だけは静謐な空間がひっそり閉じ込められている。そしてフェルメールの作品は見るたびに、私に新しいことを気づかせてくれる。

...全文は本誌最新号(2019年4月号)に掲載


福岡 伸一 ふくおか・しんいち
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。2013年4月よりロックフェラー大学客員教授としてNYに赴任。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)など。

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