ソトコト ソーシャル&エコ・マガジン

テクノロジーは、人間をどこへつれていくのか

[special] 落合陽一×小川和也「デジタルネイチャーとテクノロジー」

小川

落合さんは、「映像」の世紀から「魔法」の世紀への変化を論じられていますが、それぞれはどのような世紀なのでしょうか。

落合

「映像」の世紀は、マスメディアが社会の中心として構成された世紀でした。「魔法」の世紀は、コンピュータが中心となって社会を構成する世紀です。かつて、モリス・バーマンという社会批評家が「世界は再度魔術化する」と言ったんですね。その70年くらい前に、マックス・ウェーバーが「社会は脱魔術化した」と論じています。科学技術により社会の仕組みが明らかになり、脱魔術化したというわけです。モリス・バーマンは、科学技術が進歩しすぎたせいで、むしろ社会の中身がよくわからなくなってしまった、また魔術化していると指摘しているんです。脱魔術化、再魔術化の議論はとてもおもしろいんですが、21世紀は仕組みのわからない魔法の時代になったことは確かだと僕は考えています。機械学習、ディープラーニングで問題を解くというのは、統計的な処理で結果が出せるようになっただけで、中のメカニズムがどうなっているかは判然としない。どうしてこの問題が解けるのかという合理的な理由はわからないんです。それって魔法みたいな話で、皆が皆、理屈がわかったうえで物を作るのと、理屈がわからぬまま物を作るのとでは、事情が変わってきます。例えば入試の合否を機械学習で判断しようとした時に、なぜほかの子が合格してうちの子が不合格なのかが納得できないという現象も出てくる。映像の時代は人間がコアとなってマスメディアを動かしていたけれど、魔法の時代になると人間がコアだとは言えなくなってくるんです。

小川

当面、人間は魔術にかかり続けることになるでしょうね。魔術の装置を作るのも人間だけど、その装置に魔術をかけられるのも人間で。強い魔法にかけられると、主体が何かを見失うリスクにさらされる。

落合

魔術は恩恵でもあるので、使い方次第ですよね。魔術のレベルに至っていないものも含めて、技術の進歩は日常をだいぶ便利にしています。精度の高い翻訳をリアルタイムにできるようになっているので、タブレットだけあればどこの国の人ともコミュニケーションをとれるようになる。

小川

完璧な翻訳機によって、語学のあり方も変わりますね。語学って、翻訳以上の意味を持たせないと無意味になるし、口から耳に伝承するという原初的な意味がどこにあるのかも考え直す必要がある。もっとも、脳とつなげた翻訳機能により、相手に合わせた言語で口から発するようなこともできるだろうけど。「魔法」の世紀になると、メディアという概念が古いものになり、最終的にメディアという概念自体がなくなってしまうこともあるのでしょうね。

落合

クラウドに情報が蓄積されていると、目の前にあるインターフェイスはただの表示板であって、象徴的なメディアではないんですよね。機能と物質が一致しているからこそ、象徴的なメディアだったんです。映写機もテレビもスマートフォンも。機能の大半がインターネットの向こう側に存在するようになると、「それはただの板だろ」と。

小川

「魔法」の世紀が熟すと、魔法ですら標準化し、「魔法」の世紀に生きているという実感も褪せてしまうのでしょうね。

落合

空気みたいになるでしょうね。空気と魔法は紙一重なんです。映像は仕組みが知られているから空気に近い。仕組みはわからないけど驚きがあるから、いまはまだ魔法と空気の区別がついているんです。魔法の世界に生きている住人にとって、魔法は空気みたいなもの。インターネットって空気みたいなものになっているので、そこに接続できなくなると息を吸いにくくなります。魔法もそういうものになるでしょうね。

小川

デジタルとネイチャーという、相対するような言葉を一体化させた「デジタルネイチャー」という概念を提唱されていますね。

落合

メディアが空気みたいになってしまうと、物質的に存在するかデータ的に存在するかという区別がつかなくなります。人間は、物質的に存在するもの、人工物ではないものにネイチャーを感じるんですが、データそのものをネイチャーと感じるようになってしまうということです。コンピュータによる超自然、計算機によってもう一つ外側に定義された自然というものがあって、われわれがいま自然と呼んでいるものと人工物のすべてがコンピュータによって定義されている状態になるだろうなと。グーグルマップにデータとして保存されている森林も、バーチャルな自然と区分されなくなる。

小川

いまはリアルとバーチャルを明確に分けようとしているけれど、本物と近似という区分では片付かなくなりますね。

落合

「紙でください」というのと「データでください」というのでは、実は同じことを指していたりするんですよね。作ったものが一瞬でデータになる、そしてデータになったものが一瞬でアウトプットできるという対比関係を、バーチャライゼーション、マテリアライゼーションと呼んでいるんです。実質化と物質化、それらはあまり変わらないんですよね。その往来を軽くできるようになると、区分もしなくなる。

小川

ちなみに落合さんは、自然環境としての自然、つまり山とか川とか、生物や動物は好きですか。

落合

結構好きですね。山も川も行きますし、動物に触るのも好きです。

小川

それらがテクノロジーによって超高レベルで形成された時、現状の自然環境や動物と同じだと解釈できるんですかね。

落合

シャボン膜に超音波を当てて細かく振動させることで画像を映し出す『コロイドディスプレイ』を廃校で行うと人工物感が減り、不思議な現象だけがそこにあるように見えるんです。

『幽体の囁き』という作品は、校庭に机が並んでいるんですが、そこで子どもたちが遊んでいるような音が聞こえてくるんです。いずれもテクノロジーが当たり前のようにそこに馴染んでいて、妖怪がいるみたいで不気味なんです。だけど、テクノロジーが妖怪っぽいくらいまでになると、自然との相性がすごくいいんです。インドネシアの森林なんかを眺めていると、お化けが出てきそうな感じがするじゃないですか。『コロイドディスプレイ』も『幽体の囁き』も、お化けみたいな感じにデジタルが自然に溶け込んでしまっていて。

小川

いまは作品が妖怪のような現象になっているけれど、自然とさらに一体化すると、もはや作品ではなくなるでしょうね。

落合

パブリックアートよりも自然に近いものになるでしょうね。ニューヨークのど真ん中にLOVEという文字のオブジェが置かれたりすると“人工物感”が強いですが、“人工物感”がないパブリックアートってそのうち存在するようになると思うんですね。香川県・直島の『地中美術館』あたりは、人工物が自然に溶け込んでいるように感じられますね。

小川

僕は「テクノロジー実存主義」というものを考え、提唱しているんです。テクノロジーによって存在するようになったものは、必ずしも目的があって存在しない。それらは使命を持って生まれてくるものばかりではなく、存在が何かを意味するわけでもない。存在の価値や意味は最初にはなく、次第に作られていきます。デジタルネイチャーだって現実に一体化すればするほど、存在としての絶対感が芽生えてくるじゃないですか。かといって、あらかじめ存在する理由が用意されていなかったりする。実存主義は人間だけではなく、テクノロジーによって生み出されたものにも当てはめて解釈すると、新たな世界が見えてくるんです。

落合

確かに、『コロイドディスプレイ』や『幽体の囁き』も、生まれてから妙な実存感を持ち始め、そこから意味が作られていく感覚があります。

小川

アニメ、映画、小説も作り物ですが、人間はものすごくインスパイアされますよね。アニメだと分かっていても、感動して涙が出てくる。ある種の超現実だけど、出来がよい作品はもはや現実かのごとく人間を揺さぶります。その時、それらを単純に作り物だと言い放ってよいのだろうかという感覚になるんです。目的があって作られたものがほとんどなので、「テクノロジー実存主義」の枠組みにはないのですが、作り物が現実としての力を持つことの意味を考えさせられる。

落合

グルメサイトに支配された人間にとっては、食べ物にはメタタグがたくさん付いていることになり、人間の食べ物に対する見え方も動き方も変わります。これもある種のデジタルネイチャーで、現実と作り物の境界線が微妙になっていくことの表れの一端じゃないかと思います。

小川

人類が生きているこの世界は、実はすべてシミュレーションによる現実だとする「シミュレーション仮説」をどう思いますか。

落合

反芻はできないけれど、ありえないことだとは言い切れないですね。バートランド・ラッセルが提唱した、世界は5分前にできたかもしれない「世界5分前仮説」に近い話ですよね。

小川

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの『過程と実在』あたりもシンクロしますね。過程こそが実在であると。そもそも未来人が過去をシミュレーションの中に収める意味があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうね。

落合

実は意味ってないのかなと。もしかしたら、シムシティのようなシミュレーションゲームのノリで、楽しんでいるだけだったりして。

小川

意外と単純なオチがそこにあったら笑えますね。人間は見てから情報処理するまでに0.5秒くらいはかかるわけです。だからそもそも、いま見えていると思い込んでいるものは全部過去の世界です。

落合

先読みして動いている時と、遅れて動いている時があって、そのバランス次第で世界に対する認識ってだいぶ変わってしまうとも思います。

小川

未来といまと過去が、交差するとでもいうか。「シミュレーション仮説」を検証すると、仮想現実の可能性も、違ったものに見えてきます。

落合

そもそもいま見えているものすべてが仮想かもしれませんからね。

小川

見えているものは脳に直結しているので、脳が「シミュレーション仮説」のもとでハッキングされていたとすればすごいことだなと。

落合

僕の研究室で、触り心地、プロジェクションマッピング、VRゴーグルの実験をやっているのですが、人間って騙せちゃうんです。人間の感覚をごまかすのに必要な解像度も、意外と大したことはないんです。人間をハッキングするのは結構楽しいんですよね(笑)。

小川

解像度が高くなれば、現実とバーチャルの見分けがつきにくくなることは否定の余地がない。8Kくらいで随分リアルに感じられますからね。

落合

以前手がけた作品なんですが、紙で印刷したしおりが10枚ほど並んでいて、そこに液晶パネルが敷いてあるんです。そうすると、本物とデータの判別ができなくなります。ガラスケースの中に紙で並んでいるしおりと、データで並んでいるしおりがあって、紙とデータの見分けがつかないんですね。ルーペで見て初めて区分けができる。ルーペで覗いて、RGBの点が見えるかCMYKの点が見えるかで初めてハッキリするという作品です。

小川

「人間の脳をハッキングする」というと恐ろしげですが、研究としてはおもしろそうですね。

落合

いずれやりたいと思っているんです。いまはデジタルネイチャーになりきる期間です。自分自身がデジタルネイチャーと化すまで、あと10年くらいはかかるかなと。それから先は、“人間を脱構築”するような研究をしたいですね。

小川

“人間を脱構築”するとは?

落合

人間の実在をハッキングして形を変えるような試みですかね。

小川

とんでもない試みですが(笑)、テクノロジーによって実現できるイメージは持てます。人間の実存って、微妙なところがありますからね。

落合

僕のツイッターって半分ほどBOTなんですが、読んでいる人の多くはBOTだと思っていないんですよ。

小川

「落合 BOT」と人間が楽しくコミュニケーションしている実態がそこにあると、本物の人間とBOTの差異って何? ということになるし、たとえBOTが相手だとしても楽しめているのであれば、それはそれでいいんじゃないかという感じもします。

落合

あれだけ楽しそうにやり取りしてくれると、人間って50パーセントくらいはBOT化しても成り立っちゃうんじゃないかと思うんですよね。

小川

「50パーセントくらいまではBOT化できる仮説」。なんだか、チューリングテストみたい。

落合

それくらいまでなら、「これは人間だ」と認識するのではないかなって。インターフェイスによって認識が規定される面があるので、その内側に半分くらいBOTが混ざっていても大丈夫かと。どれくらいまで、本当の自分を薄められるのか興味がありますね。

小川

ロボットや人工知能を相手にしても、人間同様の感情を持てることを示唆するような話ですね。恋愛や結婚の対象にまでなるのでしょうね。

落合

充分にありえますね。ちなみに、僕には秘書が何人かいるんですが、秘書からのメール返信でも、僕からの返信だと思い込まれることも多いんです。

小川

代理返信も落合さんの一要素になってしまっている現象ですね。誤認識といえばそれまでですが、そのメッセージをどのように受け止めるかは相手次第です。落合さんからのダイレクトメッセージだと思い込めるならば、ひとつの現実と化すと言えなくもない。

落合

人間は細分化されたものの集積で、そこにBOTや秘書のメールも交じっている。それが現実ですね。

小川

「現実の定義」については、一筋縄ではいかなくなるのだと思います。人間の眼から見ている世界って、あくまでも人間のフィルターを介した世界でしかない。動物の眼から見た世界というものがまた存在する。だから、人間から見える世界がすべての世界であると定義することは無謀だと考えています。

落合

そうなんです。人間の認識は視覚に偏っていますし、それが世界のすべてではない。他の生き物の見え方も感じ方も人間とは違うはずで。

小川

動物に限らず、コンピュータも人間とは認識の仕方が違うでしょうからね。デジタルネイチャーにしても、まずはその実在がある。それが人間にはどう見えるのか、犬にはどう見えるのか、魚にはどう見えるのか。それぞれ世界観が変わってくるはずで、「実存とは何なのか」という問いにもつながります。

落合

デジタルネイチャーは極めて実存的で、デジタルネイチャーという超自然が“実際に”あるんですよ。グーグルマップの上にもロッキー山脈は存在するし、自然環境の中にも存在します。

小川

デジタルネイチャーもまずは現実存在としてそこにあって、本質存在に対して現実存在に優位性を置くことで解釈できるところもある。実存主義的なんですよね。

落合

裏側にはデータの自然というものがあって、それだって実存ですからね。

小川

その実存が魚眼からだとどのように映るのかって、とても興味がわくんです。人間以外の眼からはどのように映るのか、そういう多面的な目線によって、実存としてのデジタルを立体的に考察できるのではないかと。

落合

それはおもしろそう。僕はデータのことを本質、バーチャルリアリティのことは実質、物のことは物質と呼んでいます。つまり、CGも本質でなければ、物も本質じゃない。本質はデータの集まりであって、それが物質という形式によって現れているだけなんだと。

小川

デジタルによるもの、例えばデジタルネイチャーにしても、先端ゆえに異物と捉えられる場合もあるでしょう。でも、それは人間における実存主義と同様、現実存在として肯定的に解釈することで新しい世界が見えてくると思うんです。

落合

実存なのに信じることができない面がありますからね。

小川

落合さんは、100年後の世界はどうなっていると思いますか。

落合

いまから100年前の社会を振り返ってみると、完全に電化されているわけでもなく、まだ蒸気機関で物が動いていたり、タービンや石炭の時代ですよね。映像は発明されているけどテレビ放送がメジャーではない。白黒のみでカラー映像はなく、ちょっぴりだけメディアの芽が生え始めたあたりです。ラジオがあって、新聞は刷られていたけど、携帯電話はないから離れた人同士がコミュニケーションをとることは難しい。いまは治る病気も、治らなかった。それから100年経って、地球の裏側にいる人とも瞬時に連絡をとれるようになった。通信と映像の恩恵をほとんどの人が受けられるようになり、人と人が通信とメディアでつながれるようになった。当時の人類にとってみると驚くべきようなことで。これから先は、一人ひとりに対してテクノロジーが勝手に発展していく世界になるので、いままでは一人の人間が一生かけて何かをやり遂げることが当たり前だったけれど、機械が歩み寄って人間をサポートしてくれたり、人間と機械の関係のバランスが崩れたりすると思います。テクノロジーが発展していく中で、自然観を再定義することも重要になります。

小川

いまの労働をテクノロジーが補完してしまうことは間違いないけれど、必ずしも新しい仕事で人間の時間が埋められていくわけではない。人間に余剰時間が生じたときに、人間は豊かに生きていくことができるのかは難しい。仮にベーシックインカムのような制度が充実して、ハンナ・アーレントの『人間の条件』でいう「労働」「仕事」「活動」の人間の3条件を満たせなくなった時に、何が起こるのかなと。

落合

そこはなかなか難しい問題で、テクノロジーの力で何らかのプラットフォームを構築し、働かなくてもそこで莫大な利益を得られる人が現れる一方で、働かざるを得ない人も残るとは思うんですね。先進国には効率的に短期間で稼げる人がいて、途上国には一日中労働しても充分に稼げない現実がある。権利とシステムによって利潤を守れる場所と、それを守れない場所に分かれます。後者ではベーシックインカムを用意できないし、労働時間も減少しない。テクノロジーによって労働時間を短縮できる環境においては、投資や趣味に時間が使われ、生活を便利にする発明も増える。そうではない環境のほうにそれらの製造工程が託されて、労働をすることになるんじゃないかと。

小川

それによって新たな格差が生まれ、その鬱屈が新たな形の紛争を起こしてしまうのではないかと懸念するのですが。

落合

起こりかねませんよね。この構造の中で、残念ながら貧富の差は拡大するでしょうから。余裕があって、発想がおもしろくて、テクノロジーによって新しいものを作れる人は富を得られる。それができない人との差は広がり、争いが増えてしまいます。

小川

すでにその変化の入り口に立ってしまっていると感じます。

落合

日本には貧富の差を防ぎたいと考える人が多いと思うんです。生存者バイアス的なことを主張する人も少ない。そのような美徳がこの国では成立しているから、テクノロジーによる格差問題を埋めていく立場になると。

小川

新しい価値観が、人間、社会に求められますね。きっと、いまの基準では100年後には耐えられないと。現状の資本主義もとっくに古びているでしょうし、国の概念も大幅に変わっている。

落合

ある特定の目的のために人が集まるということはよくあることで、それがたまたま国です。仮想通貨も一般的になっているでしょうが、そもそもお金は人類が発明した最もバーチャルなものです。マテリアルとして存在できないからバーチャルに一度変換して、バーチャルなものが毎日変化している。為替が揺れ動くことも極めてバーチャルな話で。バーチャルというものはどこに属してもよいものだから、仮想国家に税金を納めることもある。人間が仮想国家に属することは普通になるんじゃないでしょうか。バーチャルではアメリカ国民だけど、日本には仮想ビザで入国している。「どちらもバーチャル申請なんです」みたいな。日本に自由に滞在できる分、払う税金は周りの人より2パーセント高いんだけど、福祉はアメリカからバーチャルに提供されるし、どれだけ日本にいても追い出されたりはしない。土地と国家は切り離されるようになるでしょう。

小川

100年後には、テクノロジーによっていまの国家とは違うネットワークが成立しているだろうし、まさに土地とは紐づかない。その時には、そもそも仮想という言葉も適用されていないでしょうね。

落合

すべてが現実ですからね。

小川

いまの「仮想」と「現実」の区分は完全に過去のものとなっていて、本質、実質、物質、それぞれが再定義されているはずです。

落合

実質的、フィジカルには日本にはいるけど、アメリカ国民ですというような人がいてもいいと思うんですね。このエリアは自由に出入りしていいけど、その隣には「出入りに税金がかかります」というエリアがあったりして、ETCのようなもので管理するんです。全人間にIDと電子マネーが付帯され、電子国籍がある状態で、滞在も移動も自由になる。もっとボーダレスに人がつながり、居住できるようになったらいいなと。身体性が持っている結びつきを、電子の力で強化できます。

小川

人間同士の結びつきがいまより強くなるかもしれませんね。それによって、世界が一つになれる日が来ればいいなと。

落合陽一

落合陽一
おちあい・よういち●1987年生まれ。筑波大学助教。メディアアーティスト。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。IPA認定スーパークリエータ。「三次元音響浮揚(ピクシーダスト)」で、経済産業省「Innovative Technologies賞」を受賞。2015年、米the WTNの「ワールド・テクノロジー・アワード」(ITハードウェア部門)において、日本から唯一、最も優秀な研究者として選ばれた。近著に『これからの世界をつくる仲間たちへ』(小学館)。

小川和也

小川和也
おがわ・かずや●アントレプレナー/フューチャリスト。慶應義塾大学法学部卒業後、アントレプレナーとしてテクノロジーを基軸としたベンチャービジネスを国内外で展開する一方で、フューチャリストとしてテクノロジーに多角的な考察を重ねて未来のあり方を提言している。これまでに、東京藝術大学非常勤講師、西武文理大学特命教授なども務め、著書、講演、メディア出演多数。人間とデジタルの未来を説いた『デジタルは人間を奪うのか』(講談社現代新書)は教科書をはじめとした多くの教材や入試問題にも採用され、テクノロジー教育を担う代表的論著となっている。J-WAVE「Futurism」(毎週日曜21時~)ナビゲーター。

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