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テクノロジーは、人間をどこへつれていくのか

[special] 曽野綾子×小川和也「小説とテクノロジー」

小川

シンギュラリティという概念があります。それは技術的特異点で、人工知能が人間の能力を超えてしまうことで起こる様々な出来事により、人間や社会が大きく変容してしまうというものです。日本人の平均的なIQが100くらいで、アインシュタインの頭脳をIQ換算すると100台の半ばから200の間だったのではないかと推定されています。一方で、シンギュラリティにおける人工知能のIQは1万に届くという見方もありますから、それはもう、知能面では人間を圧倒してしまうわけです。そうすると、人間の仕事の多くは人工知能に奪われてしまう。これがひとつの変容なのですが、曽野さんはそのような社会が訪れると思われますか。

曽野

私は『二〇五〇年』という小説を2013年に書いていて、そこで描いているのは2050年の惨憺たる社会です。人口減少と高齢化で日本社会は荒廃し、老人は敵対視されています。技術は進んでいるでしょうが、マンパワーがない。

小川

人間の力そのものが問われるという意味では、まさにシンギュラリティを彷彿させられますね。しかも2050年は、そのターニングポイントとして考えられることの多い頃です。曽野さんは、なぜ『二〇五〇年』を書こうと思われたのですか。

曽野

シンガポールにいたときに、東南アジア中からマンパワーが集まってきている場面をたくさん見ました。身体の不自由な高齢者の世話をしたり、素晴らしいマンパワーなんです。しかし、これからの日本は未曾有の高齢化社会になり、お金はあってもそのマンパワーが圧倒的に足りなくなる。その果ての状況として、この小説を書いたのです。

小川

技術的観点というより、いびつな人口バランスから生じる変容を描かれていますが、このままいくと大きなターニングポイントを迎えるだろうということにおいては、シンギュラリティと重なりますね。結果的に混沌とした社会が訪れる。

曽野

高齢者の比率などの統計データからも、2050年あたりに大きな節目がくると感じています。

小川

マンパワーの問題も顕著になるなかで、特に医療や介護の分野でロボットや人工知能の活躍が期待されています。

曽野

医療には使えますね。でも人工知能で小説は書けません。人間の精神の問題と、身体を洗ってくれるとか、助け起こしてくれるとかは、別のものです。もちろん助かりますよ。私は女性ですし力がないですから、90歳の夫が1日7回も転んだ日があって、助け起こせないんですね。そういう時に、誰に電話すればよいの? と。110番でも119番でもないとか、どう対応してよいのか分からなくなって。

小川

そのような時に物理的な技術の補助があって助かることは事実だとしても、精神的な補助まではできないという考えでしょうか。

曽野

排泄の問題を解決し、食の問題は栄養士さんがカバーし、そうやって高齢者問題は解決したとおっしゃる方もいますが、そういうことを死ぬほど嫌がっている高齢者は多いんです。私がマッサージをやっていただいている女性の知人の男性が介護を施設で受けることになった時、泣いていらっしゃったそうです。とはいえ、その女性も高齢で面倒を見てあげることができない。痴呆で状況の理解ができなくなってくると、施設でケアをされることは仕方がないとか、そういう判断も行えなくなります。

小川

そのお話を伺うと、ケアというものは物理的な側面だけでは解決しきれないことが伝わってきます。精神面でのケアは、ロボットが介護をする社会になった時に、なお課題として残るのでしょうね。

曽野

だから技術が発達しても、惨憺たる状況になっていると思うのです。

小川

医療の世界では、人工心臓をはじめとしたあらゆる臓器の人工化など、技術が飛躍的に進歩していきます。究極的には不老不死の実現で、医療技術の進歩の先には不可能ではないという考え方もあります。人間にとっては夢のような不老不死ですが、果たして、人間はその可能性を手にして幸せになれるものでしょうか。

曽野

なれませんね。最悪の懲罰ですよ、人間にとって。一度小説を書きたいと思っているんですよ。死なないという罰をくらった人間が主人公の偽ギリシャ神話です。

小川

それはぜひ書いていただきたいコンセプト、興味深いです。

曽野

でもうちの孫が嘲笑あざわらうんです。ギリシャ哲学が専門なので、そういう発想はギリシャ神話の世界にはないらしいですね。いいじゃない、小説家はもともと嘘つきだからって言ってやりましたけど。

小川

ギリシャ哲学を専門とするお孫さんとのその掛け合い、ユーモアで思わず笑ってしまいます。死なないということが人間にとって最悪の懲罰、医療技術の発達により不老不死になっても人間は幸せになれないというのは皮肉な話ですね。

曽野

地球上のものは、昔から絶えず、葉っぱも生えて落ちての繰り返しがあることによって健全さを保っている側面があります。生かしていただけることはありがたいことです。私の若い頃は、恋人がいたり、これからやりたいことがあるにもかかわらず、多くの若い人が結核で命を失いました。医療が発達して本当にありがたいと思います。ただ、人間はどのようなタイミングで死を迎えるべきか、それは一筋縄ではいきません。

小川

医療に技術がどのように入り込むかは、倫理、哲学も絡んできますからね。さらに命に関わること、技術で不老不死を実現することなんて、その極みです。

曽野

そうです。精神の自由、精神の鍛え方が重要です。自分はいくつになったら死んでもよいと思うか、それこそおのおのの決断、考え方です。

小川

曽野さんのご職業でもある小説の世界でも、ロボットが活躍するようになると言われています。ロボット小説家の登場です。小説のおもしろさというものを科学し、そのおもしろさを盛り込んだ小説をロボットが書くんです。曽野さんは小説家として、そのような現象をどのように思われますか。

曽野

登場してもかまいませんけど。そういうものは小説の第一のおもしろさである、個人的世界の構築の根拠がありませんから。

小川

そもそもロボットはおもしろい小説を書けるものなんですかね。

曽野

絶対に書けないでしょうね。

小川

一刀両断ですね(笑)。

曽野

ええ、どうぞどうぞご自由にお書きくださいと。思考、判断の経路というものには私独特のものがあって、上等下等の問題ではないんです。個性の問題なんです。

小川

人工知能がおもしろい小説はこういうものだと定義をし、そのアルゴリズムにのっとって書けたとしても、その個性を表現するのは難しいということですね。確かに、予定調和ではない、個性のスパイスでおもしろさが左右されるところはあります。

曽野

ロボット小説家みたいなものはあってもよいと思いますよ。私は、喧嘩をしたり、ドタバタな物語が好きなのですが、そういう物語を書くことはロボット小説家に向いているかもしれませんね。でも独特の感覚はその人のもの、人間特有の何か余分なものがありますから。

小川

人間のきめこまかい個性までをロボットに落とし込むことは容易ではないでしょう。一定の個性まではインプットできると思うんですよ、ロボットにも。こういう個性のロボットにはこういう動きや発言をさせるとか。ただ、ひだのようなもの、微妙な部分が大きな差になるというか、それが人間らしさだとするならば、その再現は相当難しい。それを踏まえると、個性、感性にまつわるような仕事は、やはり単純作業的な仕事に比べてテクノロジーに奪われにくいという発想にもなるのでしょうか。

曽野

個性的な仕事、単純作業的な仕事、どっちも要るようで要らないんですよ。つまり、一般的な人が求めているものが叶えられれば、独特な感性で表現されたものなんて要らないという考え方も分かります。ですから小説も売れないんです。売れないから食えない作家もたくさんいるわけでして。それはちっとも異常じゃないんです。

小川

拙書『デジタルは人間を奪うのか』のなかで、人工知能に将来奪われやすい仕事、奪われにくい仕事について言及している個所があります。その観点ならば、奪われにくい仕事、すなわち人間の想像力を要する仕事が一番だということにもなりませんよね。奪う、奪われない、そういう次元で物事を考えても仕方がなくなるというか。

曽野

2次元、3次元、4次元、そもそもそれくらい違う次元ではないかと思うんですよ、人工知能の世界は。たとえば、囲碁や将棋で人間と人工知能が対戦するような話はまだ同じ次元に感じます。サッカーなんかでは、人間よりも巧いロボットが現れたりして、それも同じ次元ではないでしょうか。昔からあるピアノの自動演奏などもそうかもしれませんが、やはり変わった演奏というものもあります。

小川

個性がある演奏、ですね。

曽野

個性以上ですね。ある韓国の女性ピアニストが、オペラのカルメンの旋律だけを11分にまとめて、ストラディバリウスで演奏したのを聴いたときに、「ああ、カルメンってこういうものなんだ」と、とても感動したのです。それはもう、個性の問題なんて言えないくらい、独特な感覚なんですね。

小川

テクニック、そこからあふれる個性ですらないという。

曽野

もちろんテクニックは大事でしょうけど、音の一つ一つが能弁なんですね。でも、その延長線にあるものではないというか、とにかく次元が違う感じがするんです。機械が要るとか要らないとか、そういう選択論ではなく、全く別のものだから、機械は機械としてあればよいじゃないって思いますね。私はずいぶん昔から、そうね、35年ほど前からワープロを使って執筆をするようになりました。ですから、機械は機械で便利だと思っていますよ。

小川

人間の思考は道具によって左右されるという諸説があり、同じ書き手でも、ワープロと手書きでは内容や文体が変わってくるという考え方もあります。曽野さんは、ワープロで執筆されるようになってから、書く内容が変わったと思われますか。

曽野

いいえ、全然同じです。頭の中でつくられた文章を、何で記すかというだけの話です。書く手段によって違うという作家もいますよ。手書きじゃないと魂がこもらないとか。でも私は、頭の中にあることを書き写すのは何であっても一緒だから、そんなことはないと言っています。昔は筆、その次の時代には万年筆、それからボールペン、今はワープロです。そのうち、頭の中にある文章を電子的に写してくれるようなものができたら便利だなと思いますけど。

小川

それはいつか実現すると思いますよ。それにしても、曽野さんのように道具に左右されないという人と、左右されてしまうという人に2分されるのがおもしろいですね。

曽野

万年筆で書いていた時代には、万年筆はとっても大事なものだったんですね。そんな若い頃、NHKに出演し、「おギャラ」をその場で頂く習慣でした。封筒に入っていて、受けとる時に万年筆でサインをしたんです。そうしたら、一緒にいたドイツ文学者の高橋義孝先生がおっしゃるんです。「曽野さん、お済みになったらちょっとそのペンを拝借」と。私がどうぞとお貸しすると、「僕はね、自分が使っているものは大切だから絶対外に持ち出さないんですよ」っておっしゃるんです。私は、ひどい人だなと思いつつ(笑)、偉い人だなとも思いました。それくらい、そこに魂があったんですよね。鉛筆を6本とか、10本とか、削っておいてから書いた時代もありました。それが3Bだったり、HBだったり。私の前の時代は、筆だったのでしょうね。「筆で書かないやつは、文学が分からない」という人もいたことでしょう。道具というものは常に変わってきました。どの時代でも、道具についていろいろと言う人はいたわけです。どんな道具であっても、私にとっては結局一緒です。

小川

道具と思考の相関において、曽野さんのそのお話はおもしろいなあと。変わる変わらない、どちらもあり得るのでしょうが、曽野さんは頭の中ありきで、どんな道具であっても表現されるものは左右されないのですよね。

曽野

だから最後は、頭に電極付けて、それを文字にしてもらえるようなものが出てきたらと思いますね。そうしたら、私は寝ていて小説が書けます。

小川

テレキネシス、サイコキネシスのようなものを、テクノロジーが形にする時代は来ると思いますよ。その時は、頭の中で作った文章がそのまま原稿になることもあり得ると。現に、脳とコンピュータを直接接続して情報をやり取りするブレイン・マシン・インターフェイスというテクノロジーの研究が進んでいます。まるでSFみたいな話ですが、これが進化すると、頭の中で指示を出すだけで身体を使わずに物を動かせるようになり、身体に障害がある方が活動する時、飛躍的に便利になります。

曽野

私、ALSの方とずいぶんたくさん旅行をしたのですが、そのような手段によって思っていることを伝えられたり、動きにできるようになったらいいですね。

小川

テクノロジーの進化は、人を幸せにするものであってもらいたいとつくづく思います。一方で、テクノロジーを悪用する向きもあります。サイバーテロとか、テクノロジーを悪用した代理戦争であるとか。

曽野

そういう動きも増えるでしょう。一番恐ろしいのは見えない敵で、昔は潜水艦のようなもの。それがテクノロジーによって見えない敵がどんどん増えてしまうでしょうね。

小川

また仕事の話に戻りますが、テクノロジーが人間の代わりに仕事を担うようになっていくと、人間が働く時間が極端に少なくなるという予測もあります。ほとんど仕事をせずに、時間があり余る。ある種のユートピアとでも言いますか。

曽野

トマス・モアのユートピアは架空、「どこにもない場所ウ・トポス」という意味ですよね。

小川

いまはユートピアとして扱われているものがあり得てしまう、それくらいのインパクトだということです。それは人間にとって幸せなのでしょうか。

曽野

全然幸せではないでしょうねえ。ただ、月曜から金曜までは働かなければいけないというような考え方がなくなってしまうこと、それはそれでいいんです。そもそも時間の考え方でいうと、プロとアマで違うんですね。アマは時間単位の工賃を高くしようとし、その時間を積み重ねて賃金を得る。プロは仕事の成果から考えます。小説だとすれば、3枚を10分で書いたという場合もあれば、3か月かかったという場合もある。でも同じ3枚ですね。問題は、それをどれくらいの時間で仕上げたかです。それがプロの時間の使い方ですね。

小川

アマとプロでは時間のとらえ方が違いますよね。実際は、プロのほうが少数派と思うんです。あり余る時間を適切に消化しきれない人が増えると、身をもて余して犯罪につながったり、治安も悪化しかねない。そこで、生き方、考え方の再構築が必要となり、あらためて教育が果たす役割は大きくなると考えています。

曽野

自分の人生を自分で設計する癖ですね。どんなことでもいいんです。自分で設計すれば、プロになれる。

小川

その意味でのプロが増えていくことはいいですね。自分で自分を設計して、時間的自由の中で真に自由になれるような。

曽野

第三者に自分を託すことは、つまらないですからねえ。私のお友達には変わっている人が多くて、どう変わっているかと言えば、その方しかあり得ない世界をお持ちなんです。

小川

アマとプロ、どちらか一方しか存在しない社会でなくてよいと思うんです。どちらもいて、それなりのバランスで成り立っていて。それと、お金のあり方もずいぶん変わってくる気がするんですね。働かなくてもよくなると、必然的に収入も減っていく。収入が減ったとしても、そもそも使い道も減って縮小均衡。そもそもお金ってなんだろうと、考える環境にさらされるようになると。

曽野

貧しくてもいいんじゃないでしょうか。水飲んで寝てればよいと、シンプルに。

小川

それは資本主義に対するアンチテーゼみたいなものでしょうか。

曽野

そんな難しい話ではありませんね。アフリカの大多数の人々はそうやって暮らしているわけで、彼らは資本主義に対するアンチテーゼなんて考えていませんから。自然です。さっきちょうど、スペンサー・ウェルズの『アダムの旅』というおもしろい本を読んでいたんですが、いにしえの遺伝子、植え付けられている本能が自然とそうさせているのでしょうね。

小川

テクノロジーの発展が働くとは何か、お金とは何かを問い、でもなんだかんだいっても人間の原点に回帰するというところでしょうか。そうやって、テクノロジーは様々なものを人間に問うと思うんです。人間がテクノロジーを成熟させて、成熟したテクノロジーが人間を成熟させる。ロボットや人工知能の能力が高くなって、「人間さん、こっちのほうが優秀で成熟していますよ」とそれらに問われた時に、そもそも「人間にとっての成熟とは何なのか」を考えざるを得なくなると思うんです。

曽野

成熟の解釈はとても広いわけです。自分で稼いでご飯を食べられるようになることも、信号が青になったら渡り、赤になったら止まれるようになることも、また、人に暴力を振るわないよう制御できることも、成熟といえば成熟ですから。

小川

確かに、何が成熟かという定義が簡単ではないのですよね。人間が固定観念として持っている成熟とか、ロボットがこうなったら成熟だとか、それらは意外と曖昧です。「平等とは何か」みたいな話も同じだと思うんです。義足のランナーがオリンピックに出て競技に参加することは不公平ではないかという議論があって、そこでは公平不公平の解釈が揺れています。人間は、そういうことから考え直さなければならなくなると。

曽野

私が日本財団で働いていたときに、車いすで神宮球場を周回して速さを競うイベントを行ったことがあります。そこに日体大の学生が参加し、身障者の方と車いすに乗って競走したんですが、体育大学で鍛えているにもかかわらず、身障者の方に完敗だったんです。もちろん手心も加えていませんし、本当に敵わなかったんです。それと、私は編み物がまったくできないのですが、目が不自由でも編み物がとても上手な方がいらっしゃるんです。ハンディキャップ、平等って何? と思いますし、そういう場面に遭遇したとき、人生の楽しさ、幸せのようなものを感じるんです。

小川

平等についても、われわれは固定観念にとらわれ過ぎているのかもしれませんね。これから身体の機能を補完するテクノロジーが発達すると、その固定観念も崩れざるを得なくなると思います。

曽野さんは、まさにそのような現象の一端に触れ、楽しい気持ちになるのかもしれませんね。ところで、そのように楽しく感じる気持ち、さらに好奇心みたいなものは人間特有のもので、人工知能やロボットは持ち得ないという考え方が一般的でしたが、いまや好奇心を持つ人工知能の研究が進んでいます。それが実現すると、人間では気づけないことにも気づけるようになると言われています。

曽野

好奇心とは自分だけの“オウン”、ひとりのものなんです。だから人工知能が好奇心を持ったとしても、それが自分の好奇心となるわけではないですから、それはそれだと。

小川

好奇心はあくまでも主観であって、ロボットの好奇心が汎用的な好奇心になるわけではないですからね。その研究は、あくまでも課題発見の精度を上げるための好奇心ではありますが、そもそも人間が気づけないことを発掘する好奇心が人間にとって有用かは何とも言えませんね。

曽野

そもそも私は、人類、人間から物事を見ないんですね。個人の観点で物事を考えます。好奇心も人間にとってどうかではなく、個人にとってどうかですから、そもそも人工知能の好奇心もそれはそれ、って。

小川

曽野さんの『誰のために愛するか』という作品がありますが、擬人化した人工知能に恋愛感情を抱き、人工知能との会話を楽しむような近未来を舞台とした映画もあります。まさに、「人工知能のために愛する」ような内容です。

曽野

声の悪さ、言い方の嫌らしさみたいなものだって人間ですし、一般的に声がいいというのも、それはあくまでも“一般的に”であって、画一的によいというものはないんです。人それぞれの好みですから。

人工知能がよい声を発したとしても、そのよい声というのは“一般的に”ということですね。何しろ大事なのは中身ですが。

小川

ちょっと癖がある声や言い方であっても好きになったり、会話が脱線したり、予定調和ではないところに魅力を感じる場合は往々にしてあります。人工知能が、予定調和ではない、いい意味での脱線をできるような生臭さを持てるかですよね。

曽野

やはり人間とは別次元の存在ではないでしょうか。

小川

小説『二〇五〇年』からさらに先、これから100年後の世界はどのようなものになっているのでしょうか。

曽野

私、実は未来小説ってあまり興味がないんです。だから『二〇五〇年』も、再来年後くらいの出来事であるような感覚で書いています。100年後はそれをずいぶん超えていますからねえ。その頃のデータがあれば推測はできるのでしょうが、そもそもデータがあると「きっとそうならないだろう」と思ってしまうんです。たとえば、株価が上がると言うならそうならないと思いますし、世の中の憶測を信じたことがありません。一方で、動物的勘、特に悪いことを察知する勘が強く働きます。説明しにくいですが、嫌な予感に敏感で、アフリカの道を歩いていても危険なときはすぐに分かったりするんです。

小川

元来人間にもあったはずの動物的勘が、近代化、テクノロジーの発展とともに衰退しているという考え方はありますね。外部的手段が充実し、それに頼る度合いが高くなると、その代償で持っていた人間の力が劣化する。テクノロジーの恩恵はそれを補ってあまりあるものだとしても、動物的勘は絶対に失いたくないもののひとつだと思いますね。動物的勘でしかサバイバルできないことはあるはずですから。100年後、人間がそれを喪失していないとよいなと。

曽野

動物的な勘、テクノロジー、どちらかに偏りがちですが、両刀使いがいいですね。いまの子どもたちには動物的勘がなくなってきている感じがしますから。

小川

これからますますテクノロジーの引力が強まり、そちらに傾倒していくはずですので、なおさらです。多くの人が想像する100年後は、曽野さんではないですが、もしかしたら「そうならない」のかもしれません。そもそも既定された100年後などというものはないのですから。

曽野綾子

曽野綾子
その・あやこ●1931年東京都生まれ。作家。清心女子大学文学部英文学科卒業。1979年、ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章。2003年、夫の三浦朱門氏に続き文化功労者、2012年に菊池寛賞を受賞。1995年から2005年まで日本財団会長を務める。『老いの才覚』(ベストセラーズ)、『哀歌』(毎日新聞社)、『観月観世 或る世紀末の物語』(集英社)、『椅子の中』(扶桑社文庫)など著書多数。

小川和也

小川和也
おがわ・かずや●アントレプレナー/デジタルマーケティングディレクター/著述家。慶応義塾大学法学部卒。アントレプレナーとして数々のITベンチャービジネスの立ち上げと経営、デジタルマーケティングディレクターとして先端的マーケティング手法開発を続けている。ビジネスだけではなく、デジタルと人間や社会の関係の考察と言論活動を行っている。主な著書に『デジタルは人間を奪うのか』(講談社現代新書)など。著書、講演、メディア出演多数。東京藝術大学非常勤講師。

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