ソトコト ロハスピープルのための快適生活マガジン

Radio SOTOKOTO

知名定男
沖縄音楽の大立役者が、64歳にして手がけた偉業。 photographs by Shiko Watanabe text by Norie Okabe

 沖縄音楽界の第一人者・知名定男が、伝統深い民謡から新唄まで全101曲を新録音した「島唄百景」を発表した。スタンダードな民謡スタイルで、じっくり魂の唄三線を味わえる逸品だ。『ソトコト』2010年3月号インタビューでは収録しきれなかった、島唄に懸ける想いを大公開!

12歳でデビュー。
天才少年の登場。

ソトコト(以下S)「知名さんは、もともと大阪のお生まれだそうですね。お父様は沖縄出身で、芝居に歌に活躍された知名定繁(ちな・ていはん)さん。歌を始めたのは、やはりお父様の影響ですか?」
知名定男(以下C)「そうですね。5歳のころから父にやらされていました(笑)。終戦後の当時は、天神会の集まりが全国各地にあって、親父たちはそこで慰問というか、余興で芝居や舞踊を見せたり、歌を聞かせていたりしたんです。僕のような子どもが歌うと投げ銭が多いもんですから、親父はきっとそれが目当てだったんでしょう(笑)。僕は嫌で嫌で、いつも逃げまわってましたけど」

S「お父様とともに沖縄へ渡ったのが12歳。移住してすぐ登川誠仁(のぼりかわ・せいじん)さんのもとへ内弟子に入られたとか」
C「とある劇団が素人のど自慢をやることになって、そこへ知り合いのおばあが僕のことを申し込んだんです。で、仕方なく出たら、たまたま2位になってしまった(笑)。登川師匠は、そこで審査員をやっていて僕に目をつけたんですね。その晩すぐに、我が家へ来て親父に『預からせてくれ』と。うちの親父は戦前からレコードを出してますから、登川師匠も当然、親父の名前は知っている。いろいろ音楽話に花を咲かせていましたね。
 実は、もうひとりの審査員というのが嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)さんでしてね、嘉手苅さんも僕を狙ってたらしい(笑)。結果的には、セイグヮー(登川誠仁のニックネーム)でよかったなと思います」

S「それは、またなぜですか?」
C「嘉手苅さんのところにいたら、逃げとったでしょうね。あの人は、でたらめでね、今日教えることと明日教えることと違うんです。そして酒癖が悪い。まあセイグヮーも酒癖は悪かったけど(笑)。でも、正調派で、ちゃんと指導してくれました」

S「ひとり稽古のときの監視役には、メジロが使われていたとか(笑)」
C「セイグヮーの家のメジロは不思議なメジロで、三線を弾いたり歌を歌ったりすると、ものすごく鳴くんですよ。でも、こちらが三時間くらいやり続けると、メジロも疲れて鳴きやむ。そこで稽古が終わるんです。そのあとセイグヮーが帰ってきて、三線を弾く。それでメジロが鳴き始めたら、『お前やってなかったな!』って怒るんです。いやらしいでしょ(笑)」

S「12歳というわんぱくな年頃なら、やはり遊びたいという気持ちが強かったのでは?」
C「そうです。だからずっと嫌で嫌で。当時は歌を楽しいと思ったことなんて一度もなかった。でもね、12歳でデビューしたんですよ。ボーイソプラノで歌った『スーキカンナー』。これが沖縄中でヒットしましてね。天才少年なんていわれて、いい気になったもんです。
 でも、15歳くらいになると変声期になるでしょ。それでも、あのひどいセイグヮーはボーイソプラノで歌えと言う。当然まだ変声期の途中ですから、無理して歌えば喉から血が出るわけです。それで歌をやめた(笑)。地方に行っても、声が違うものだから、『これは知名定男じゃない』とニセモノ扱いされてね、追われるようにして逃げてきたこともありましたよ。それから僕はセイグヮーの家を出て、実家に戻ったんです」

22歳での目覚め。
島唄はかっこいいんだ。

S「その後、再度歌い始めたのは?」
C「16歳の頃ですね。大阪でマルフクレコードというレーベルをやっていた普久原朝喜(ふくばる・ちょうき)さんが、沖縄へ帰省したんです。当時は帰省というと大変なことだった。それで記念にレコーディングをやろうと。僕は幼少から朝喜さんに可愛がってもらってたし、お前も何かやれと声をかけられましてね。
 そのころ民謡界は高い声で歌うことが定番だったんですけど、僕はもう高い声が出なくなってましたから、仕方ないということで低い声の歌を自分で作ったんです。『おぼろ月』という僕にとって最初のオリジナル曲。新作ブームに入る直前でね、運よくこれがまた評判を呼んだんですよ。曲が売れれば、あちこちからまた声がかかるものだから、せっかくやめていたのに、また歌の世界にトンボ返り。自分は歌が好きでもないから適当なんですけど、いい加減なことをやっとっても、人よりうまいわけだから困ったものです。みんなが期待する一方で、僕自身はなんの目標もなく、かといって、この業界から足を洗おうという決心もつかないし、本当に辛かったですね」

S「そうした状況の中でも、歌い続けたんですか?」
C「迷いながら、なんとか。でも島唄の世界というのは、どうも軽視されがちでしてね、三線を弾く人は放蕩者であるという見方が強かった。そんなこんなで、ふとクラシックギターを始めたんです。そしたら、女の子たちがちらちらと注目するんですよ。で、『これはギターだ!』と(笑)。普久原恒勇(ふくはら・つねお)さんというクラシックギターの名士の方に師事して、本格的にやり始めました。これが最初のころは、とても楽しくてね。ショパンとか、きれいな曲ばかり並んでいるし、弾けば女の子も寄ってくるし(笑)。
 で、どんどん進んでいくんだけど、バッハをやったとたん止まりました。難しいだけで何一つおもしろくなかった。曲も膨大で、やってもやっても終わらんし、結局途中でやめてしまったんです。で、これはダメだとなったとき、ふとなんとなく琉球古典をクラシックギターで弾いてみた。すると、それがとってもかっこよくてね、そこで目覚めたんです。『島唄はかっこいいんだ』と。22、23歳のときでした」

歌はどこかで必ず蘇生する。
それを信じてやまない。

S「いちど離れて、初めて島唄のよさがわかった、と」
C「そうです。それからは、よし、この道でいこうと。また勉強のやり直しです。古い歌を聞きまくったり、先輩たちの話を聞いたり、お酒をお付き合いしたり。嘉手苅林昌、登川誠仁、あの酒癖の悪いふたりから、なぜああいう歌が出てくるか、そういうことも検証しました。そして、あの野蛮さから出てくるんだ、と。酒癖が悪い、素行が悪い、口が悪い、でもこの人たちの歌を聞いたら、お釣りがくるな、余りあるなという。
 それまでは嫌で嫌で仕方なかったけれど、島歌に目覚めて考え方も変わったんですね。彼たちが、なにをやっても許せるんです。あのふたりは、やっぱりすごいですよ。当時はみんな独学ですからね、誰も教えてもらえる人がいない中で唄、三線を自分のものにしていった。誰かに師事するというやり方も、僕が最初だったと思いますよ」

S「知名さんは、そうした先輩方の島唄を受け継ぎつつ、一方で新しい歌を積極的に生み出されてきた印象があります」
C「僕は古い歌も新しい歌も、同じライン上にあると思っている。古い歌を根底としましょうということです。だから新しい歌を作る時は、古い歌を聴きまくるんですよ。その中からポーンと引き出しが出てきてね、それが新しい作品に乗り移っていくという。これは蘇生です。
 私が作曲しましたなんて、おこがましいことは言えません。古い歌は廃れつつありますけど、僕はなくなっていくものはしょうがないという考え方なんです。しがみついて保存なんてしていたら、逆に歌が死んでしまうような気がしてね。なくなるものはなくしてしまえばいい。大丈夫、歌はどこかで必ず誰かの手によって蘇生するから、と。それを信じてやまない」

ボブ・マーリーより、
ウェイラーズを観ていた(笑)。

S「1978年の本土デビュー作『赤花』に収録された『バイバイ沖縄』はレゲエを取り入れた曲でしたが、そうした島唄に洋楽サウンドを取り入れる『沖縄ポップス』スタイルは、どのように生み出されたんですか?」
C「そもそもは沖縄の若い者を納得させるような、先取りの音楽をやってやろうと思ったんです。僕もかつてエルビス・プレスリーに夢中になったりして、島唄なんてかっこ悪いと思ってた時期がありましたけど、当時若いもんはみんなそんな風だった。72年に沖縄が復帰した頃なんて、若者はみんな中央に目を向けていて、東京がすべての発信地としていましたからね。僕はそれにものすごく危機感を感じた。喜納昌吉(きな・しょうきち)も『このままじゃ大変なことになるぞ』なんて言ってね、よく議論したもんです。
 結局、答えを出すのには何年もかかりましたけど、自分たちも東京でデビューしようというところに落ち着きました。東京でウケたものがいいと言うなら、俺たちも東京でウケればいい。そうすれば若者も沖縄の良さを改め直すだろう、と。そこで島唄をかっこよく聞かせる最先端の音に挑戦してみたわけです。結局のところ、古い島唄を聞きまくったことも、クラシックギターをやって洋楽を学んだことも、全てそこにつながっている。各々が別の話ではなく、僕の中では全て地続きにあるんです」

S「それにしても、なぜレゲエだったんですか? 当時の日本でレゲエをやる人などいなかったのでは?」
C「そうです、それこそ誰もやってない音楽でした。これはね、たまたまチケットが入って、大阪の厚生年金会館でボブ・マーリーのライブを見たんです。僕は、ボブ・マーリーがすごいと思えなくてね。それよりも、バックで演奏するウェイラーズとコーラス3人組のアイスリーが、たまらなくかっこいいと思った。だからボブの歌はあまり聞かずに、ウェイラーズのサウンドに載せて、心の中で島唄を歌っていたんですよ。『このレゲエのサウンドと島唄は合うぞ!』と、えらく興奮してね。それで『バイバイ沖縄』が生まれたんです。
 結果的にその曲が話題を呼んで、僕の本土デビューは相当の効果がありました。今でも言われますが、本土に就職した人や大学に行った人らが、当時ラジオから流れる僕の歌を聞いて泣けて泣けて仕方なかったっていうんです。それまで中央のラジオで沖縄の歌が流れるなんて、ありえないことだったから、その喜びはたとえようがない、と」

S「なにもかもが革新的ですね」
C「島の先輩たちからは、僕が島唄離れしているとかなり怒られました。彼らにとって僕は大事な後継者なんですよ。それが、わけのわからん音楽をやり始めたと。でも、僕は島唄の魅力をもっと広めんといかんと思ってましたから。それで沖縄だけじゃなく、本土のいろんなところでライブをやりました。島唄もやり、ポップスもやり。そうこうしてるうちに細野晴臣さんや坂本龍一さん、本土のミュージシャン方が沖縄音楽を取り入れてくれるようになりましてね。これはいよいよ波がきたぞ、と(笑)。
 で、89年にりんけんバンドがデビューして、その翌年に僕のプロデュースしたネーネーズがデビューした。それからはトントン拍子。ありがたいことに、 THE BOOMの『島唄』もヒットを飛ばしてね、一躍沖縄というものがクローズアップされたという。僕が本土デビューしてから20年です。そのときは20年の苦労が報われたと思いましたね。もう自分ができることはやった。と。これからはもう一度、スタンダードな島唄に根ざした活動で、自分の歌に磨きをかけていこうと思いました」

後継者がいない時代。
先輩の財産を一手に引き受けていた。

S「今回の『島唄百景』は、そうした知名さんの島唄がこれでもかというほど堪能できる内容となっていて、とても貴重な作品だと思います。全101曲という膨大な曲数をひとりの歌い手が歌い、しかもすべて新録音という作品は、沖縄音楽史上、他に類を見ないとか。こうした作品を出すことは、もともと目標としてあったのですか?」
C「いえいえ、決してそんなことはありません。むしろ、こういう作品をやってしまうと、そこですべて終わってしまうんじゃないかという想いがありました。僕は、この作品に集大成という言葉を使いたくないんですよ。半世紀のまとめではない。これまで50年間やってきて、今辿り着いたところの64歳時の記録。あくまで今の私なんです」

S「今しかできない、ということですか?」
C「そういうことです。そもそも大城学さんという変わった男がいましてね(笑)、今回の監修をされている方ですが、彼の夢が僕の歌をこうして残すことだったようです。知名定男の唄三線で沖縄の島唄を網羅した作品を作りたい、と。それを初めて聞いたときは、どうしようか考えましたね。まず、自分で選曲ができない3曲4曲なら、なんとか抜き出すことはできる。でも数ある中から100曲を選ぶとなると、あとの曲を退けないといけない。これは難しい話です。結局、学さんに全部選曲してもらいました」

S「今回は、どのくらいの月日をかけて録音されたのですか?」
C「唄と三線は1週間くらいですか」
S「え!? そうすると1日で……」
C「多い時は20曲録ったかな」
S「録り直しなしの一発録りですか?」
C「ほぼそうですね。2~3曲は録り直しましたけど、なんにせよ、その日のうちに二度同じ歌を歌うということはないです。一度歌うと、もうやりたくない。同じ歌を2回歌うが嫌なんです(笑)。だから録音前にサウンドチェックしたり、マイクの調整したりしますよね。その時も、この中に入ってる曲は歌わない。別の歌でテストするんです。ライブの時と同じ。言ってみれば、今回の作品はスタジオライブですよ」

S「すごいですね。まさに歌が生きているといった感じです。ここに収録されている曲というのは、沖縄の人なら誰もが知る曲ばかりなんですか?」
C「いえ、若い世代は知らない曲がたくさんあるでしょう。歌い手でも歌えない曲が多いと思います。だからね、ある後輩が『この作品のおかげで僕のレパートリーが増えます』と言ってくれたときは本当に嬉しかった。歌い手冥利につきますね。歌い継いでいってほしいと思っている後輩から、そういう言葉をもらうと、ああ報われたな、と」

S「私たちリスナーにとっても島唄の魅力を深く知る素晴らしい贈り物。でも、なにより沖縄音楽界の次世代にとって最高のプレゼントですね」
C「そうなると嬉しい。でもこれを教則本とか、お手本だと思ってほしくないんですよ。この通り歌えということではない、参考にしなさい、と。俺の記録をいっぺん見てみい、それで自分のものにしてみいという。歌い継いでいく中で、形に囚われるのではなく、自分の世界を作っていくことはとても大切なことです。
 僕は、かつて後継者がいない時代に、先輩方の財産を一手に引き受けた。それを自分だけの中に持っておいてどうするのか、と。今度は僕が若い人たちに譲っていく番です。そうすることが先輩たちへの一番の恩返し、親孝行。この『島唄百景』は、そういう想いの上に成り立った作品なんですよ」

photographs by Shiko Watanabe text by Norie Okabe

<収録トラック>

  • 知名定男インタビュー
知名定男 Sadao China

1945年、大阪生まれ。57年、「スーキカンナー」でデビュー。78年、「赤花」で本土デビュー。「天才少年」と騒がれて半世紀あまり、全国的に沖縄民謡の第一線で活躍するだけでなく、沖縄発のポップスのプロデュースやコンサートを手がけ、海外音楽との交流など幅広い活動を行う。2009年10月に発表した「島唄百景」は、同年、『第51回 日本レコード大賞』企画賞を受賞した。

http://www.kingrecords.co.jp/shimautahyakkei/index.html

CD情報
ザ・マリー・オネッツ「アイランズ」

知名定男「島唄百景」
キングレコード KICS-91486~91491(CD6枚組み) 1万5000円

ザ・マリー・オネッツ「アイランズ」

知名定男「唄魂」
キングレコード KICS-1485 2800円

ライブ情報

知名定男『唄会 うたまーい』

出演:知名定男(唄/三線)、知名定照(琴)、吉田康子(唄/囃子)、鳩間可奈子(唄/三線)

2月26日(金) 東京「草月ホール」(港区赤坂7-2-21 草月会館内・B1階)/19時開演

2月27日(土) 大阪「大阪能楽会館」(大阪市北区中崎西2-3-17)/18時開演

問い合わせ・詳細: カンバセーション http://www.conversation.co.jp/

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