ソトコト ソーシャル&エコ・マガジン

福岡伸一の生命浮遊

優れた可能性をもった多分化能幹細胞をごく簡単な方法で作り得た──全世界が瞠目したSTAP細胞の発見をめぐる状況がにわかに揺らぎ始めた。

そもそも日本のメディアが連日報道したのは、発見者の小保方晴子博士が若い理系女子だったからだが、なんといっても最も権威ある科学専門誌ネイチャーに2つの関連論文が同時に掲載されたこと──つまり厳しい審査を経ているはずだということ、そして共同著者に理化学研究所の──日本を代表する再生医療研究のメッカ、錚々たるメンバー、およびハーバード大学医学部の──いわずと知れた世界最高峰の研究機関、有名教授陣が名前を連ねていたという事実も、発見の信頼性に多大な後光効果をもたらしていたことは確かだった。

これまで再生医療の切り札として研究が先行していたES細胞やiPS細胞(いわゆる万能細胞)の作製よりもずっと簡便(弱酸性溶液につけるだけ)なのにもかかわらず、より受精卵に近い状態に初期化できている(STAP細胞は、胎盤にもなりうるというデータが示されていた。胎盤となる細胞は受精卵が分裂してまもなく作られる。ES細胞やiPS細胞はもっとあとのステージの状態なので逆戻りして胎盤になることはできない)。ES細胞のように初期胚を破壊する必要もなく、iPS細胞のように外来遺伝子を導入する操作も必要ない。ただストレスを与えるだけで、細胞が本来的に持っていた潜在的な多分化能を惹起させうるという、これまでの常識を覆す、意外すぎる実験結果だった。私の周囲の幹細胞研究者にも聞いてみたが、皆一様に大きなショックを受けていた。それは正直なところ嫉妬に近い感情だったかもしれない。

しかしほどなくSTAP細胞に対して逆風が吹き始めた。それはネット時代の科学研究のあり方を象徴するように、ソーシャルメディアを使ったものとして表れた。少し前であれば論文はすべて紙ベースの専門誌として公刊された。もし反論や疑義があればこれまた紙ベースの論文の形で刊行されることになり、議論にはたいへん長い時間──場合によっては年単位の──がかかっていた。ところが現在、多くの論文誌は紙ベースの刊行を残しつつ、電子版としてネット上に公開されるようになった。データ(グラフだけでなく、細胞の写真やDNA実験の画像など)もすべてファイルとしてアップロードされる。だから瞬時に世界中の研究者がそれを仔細に検討することができるようになり、リアルタイムでレスポンスできるようになった。意見や議論を持ち寄るサイトも立ち上がっている。

最初に、DNA実験の画像データの一部に、切り貼りされた痕跡があると指摘された。まもなくSTAP細胞が胎盤になりうることを示した細胞発光のデータにも疑義が示されるようになり(これは共同研究者の一人が、写真を取り違えたことによる単純ミスだと釈明した)、またいったん分化した細胞が初期化されたことを示すデータも当初、考えられていたように免疫細胞のT cell由来の分化細胞が由来ではないのではないか、ということが遺伝子解析の結果から示唆されることになった(T cellであれば遺伝子再編成が起こり、これは細胞が初期化されても元にもどらないはずなのに、再編成が見つからない)。おまけに論文のテキストに、他の論文からコピー・ペーストしたのではないか、と疑われる箇所が出てきた。いずれも、粗探しといえば粗探しであり、結論を揺るがせるような決定的な問題には発展していないが、世紀の大発見を報ずる論文としては、かなりずさんな点があると見なされることになった。これもすべて、ネットを通して世界中の人々が同時多発的に検証作業を行うことができる環境が整ったおかげだといえる。

もっとも重要なことは、全く別の研究室で、全く同じ現象が、独立して再現されることである。これを追試の成功というが、科学研究でいちばん重要なポイントである。論文の著者たちは理化学研究所のサイトに詳細な実験方法をあらためて公開した。これによって世界中の研究室が、再現試験をたった今、行っていることだろう。

細胞の内部(遺伝子)を操作することなく、弱酸性の溶液に短時間つけるという簡単なストレスを与えるだけで、細胞が初期化され、再び多分化能を発揮するようになる──。このアイデア自体はたいへんすばらしいものであり、もしほんとうなら生命科学に大きな展開をもたらすことは間違いない。一刻も早く、疑念が一掃され、細胞初期化のしくみに新たな光が当てられることを期待したい。


福岡 伸一 ふくおか・しんいち
生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授。2013年4月よりロックフェラー大学客員教授としてNYに赴任。サントリー学芸賞を受賞し、ベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)ほか、「生命とは何か」をわかりやすく解説した著書多数。ほかに『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命と食』(岩波ブックレット)、『フェルメール 光の王国』(木楽舎)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『ルリボシカミキリの青 福岡ハカセができるまで』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)など。

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